その瞳の役割
【11月 19日 午前9時 45分 地方裁判所 第五法廷】
千尋よりも裁判所に早く着いた名前は、検事のことがよく見える席に腰掛けた。彼女がここに来るのは、初めてではない。弁護士であった神乃木や千尋の法廷を幾度となく傍聴している。
「お待たせ、名前ちゃん」
千尋が傍聴席へとやって来たのは、裁判が開廷されるほんの数分前だった。その面持ちは固く、弁護側が不利であろうことは容易に想像出来る。
「私達に出来ることは見守ることだけよ。祈りましょう」
彼女が静かに微笑んだと同時に、裁判長が振り下ろした小槌の音が法廷内に響いた。
「これより、佐無井 吹由(さむい ふゆ)の法廷を開廷します」
「……べ、弁護側、準備完了しております」
「検察側、もとより」
あれが、御剣怜侍──。名前はその姿に息を飲む。上擦った声を上げた弁護士とは裏腹に、静かで落ち着いた口調。その瞳は冷たく、それでいて勝利を確信している強い光が宿っている。
冒頭弁論が終了した時点で、その場の空気は検察側へと傾いた。弁護士の瞳から徐々に光が失われていくのを彼女は複雑な気持ちで見守る。
「異議は……ありません」
もう、勝負は見えていた。考えることを諦め、放棄した弁護人と、絶望に顔を歪める被告人。そして余裕の笑みを浮かべながら彼らを見下ろす検事。
形式だけの尋問でするすると流れていく法廷を、名前は食い入るように見つめた。
『彼のこと、どう思う?』
カサリという独特な音と共に、膝に置かれた一枚の紙。千尋は神妙な面持ちで、名前に問う。
『千尋さんが言っていた証拠品、偽装されたものではないと思います』
差し出された白い紙に浮かぶ凛とした文字に、千尋は眉根を上げて微笑んだ。彼女に先を促され、名前は続ける。
『証言に幾つか引っかかるところがありますが、弁護人が気付かなければ裁判は終わります。それから……』
彼女はそこまで書いたところで、筆を止めた。その視線は検察側、御剣怜侍に注がれる。
『あの人は真実を知っていると思いますよ』
その先に、言葉が綴られることはなかった。名前の瞳は真っ直ぐに御剣を見つめている。
千尋は彼女によく似た男を思い出して、再び笑む。彼の背を見て生きて来たのだから、当然と言えば当然のことだった。
「荘龍の血が濃いのかしらね」
「あんなのがパパなんて絶対嫌です」
微かに空気を揺らした千尋の声は、名前の耳にしっかりと届き、彼女は頬を膨らませて、先程の紙に乱暴に文字を走らせる。
『コーヒー愛好家とは馬が合いません』
【11月 19日 午前11時 58分 地方裁判所 一階ロビー】
裁判は名前の予想通り、御剣の勝利で幕を下ろした。千尋は弁護士を激励しに控え室へと向かい、対する彼女はロビーにてある男を待っている。とは言っても、二人に面識などないので一方的ではあるが。
「はじめまして、名字名前と申します。以後お見知り置きを」
ごく自然な動作で御剣の前に立った名前は、そう言ってふんわりと笑う。先程まで千尋に見せていたそれとは、全く違う笑みだった。
御剣は彼女を一瞥しただけで、何も言わずにその横を通り過ぎる。名前はその笑みをはりつけたまま、言葉を紡いだ。
「先程の被告人、無罪でしたよね?」
彼女の言葉に御剣は肩を揺らし振り返る。その眉間にはヒビが刻まれていた。
「有罪判決が下される瞬間を見ていなかったのかね?」
御剣は呆れたように肩を竦め、軽蔑の色が浮かぶ瞳で彼女を睨む。名前は彼の言葉にふるふると首を横に振った。
「被告人の目を見れば分かります」
彼女の言葉に御剣は一瞬面食らった後、口元を歪める。話にならないとでも言いた気なその表情を名前は真っ直ぐに見つめた。
「そう簡単に分かるのであれば、我々は必要あるまい」
「では何故、今まで有罪判決しか出したことがないのですか?」
彼女の問いに御剣の視線は更に鋭いものになる。その言葉は散々浴びせられて来たものだ。無罪だった人もいたかもしれないのに、と。しかし、と御剣は思う。
「有罪か無罪かなど、我々に知る由もない。ならば被告人を全て有罪にするのが、私の仕事だ」
「違います。真実を見つけ出す為に検事と弁護士が居るんです」
「詭弁だな」
御剣の声は酷く冷たい。何よりも、彼女の言葉は説得力を欠いている。検事でも、ましてや法曹界に在する人間でもないのだ。彼女のそれは誰もが思う夢物語であって現実はそうもいかない。
御剣は不愉快だと更に眉を顰めて、踵を返す。彼の足が再び止まることも、名前がその背を呼び止めることもなく、彼女はただ彼が視界から消えるまで見つめ続けていた。