息がいっぱいできますように


【9月21日 午後 2時7分 神乃木荘龍の病室】

裁判を終えて病室へと足を運んだ千尋を待っていたのは、名前宛に送られてきた2通の封書だった。差出人はどちらも法務省からである。一つは言わずもがな、司法試験の合格通知である。通知されるのは合格者のみであるから、こちらは早々に開き、抱き合って喜んだ2人だったが、今は重々しい空気に包まれていた。

「開ける……べきですよね?」

「まあ、そうね。開けないことには……ね」

2人がもう一つの封書を開けるのを躊躇っているのは、差出人である法務省の後ろに"検事局 局長"の文字が並んでいるからである。司法試験合格者に成績通知書が送られてくるのは当然の話であるが、検事局長直々に一受験者に手紙を送るなど千尋でさえ聞いたことがない。

要するに、内容の想像がつかない為に開ける勇気が持てないということである。

「い、いきます」

名前は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出してからペーパーナイフを封筒に宛てがう。丁寧折り畳まれた手紙を、名前は恐る恐る開く。

「"9月21日 午後4時 検事局長室にてお待ちしております"……?」

司法試験合格を祝す挨拶に、そう一言添えられていた。余りにも簡素な文に2人は目を見合わせる。名前が読み上げた部分を千尋が反芻したところで、彼女達はほぼ同時に立ち上がる。

「21日って今日じゃないですか!?」

「指定された時間までもう1時間もないわよ、急ぎましょう!」

検事局長を訪ねるにしては己の格好が些かラフであることに名前が気付いたのは、千尋の車に乗り込んだあたりのことだった。しかし、着替えに戻る時間は残されていない。幾度となく深い呼吸を繰り返した後、彼女は腹を決め、分厚い扉を叩いた。

息が詰まるような静寂が名前を包む。永遠にも思える時間は、扉が開く重々しい音で漸く本来の流れを取り戻す。それでも彼女はその扉から現れた人物に視線を奪われ、その流れに乗ることが出来ずにいた。

「急に呼び立てて申し訳なかった。美味い紅茶を用意してある。入りなさい」

瞠目する彼女を嗜めるような口調に、軽く肩口を押されて名前は局長室へと足を踏み入れる。そこは、思わず息を呑むような荘厳な空気に満たされていた。彼女は一言も発することが出来ず、ただ促されるままソファーへと腰を下ろす。

「本来ならば私から君のところへ出向くべきだったのだが、執務が立て込んでいてね」

「いえ、そんな……。検事局長様にご足労頂くわけには参りません」

柔らかな紅茶の香りと同じように、彼は柔和な表情を浮かべている。しかし名前は顔を上げることなく、じっと手元の磁器に浮かぶ琥珀色の水面を睨みつけていた。否、どうしても彼の目を見ることが出来なかったのである。

名前にとって彼は、"あの日"を彷彿とさせる数少ない人物の一人だった。まさか、検事局長になっているとは夢にも思っていなかったのだ。もし知っていたなら、ここに足を運ぶことを躊躇っていたかもしれない。

「私が、怖いか?」

「……いいえ」

名前が抱いている感情は恐らく、恐怖心ではなかった。なんと名前をつけていいのか、はたまたこの感情がどういった名を持っているのか、彼女は知らなかったのである。

「恨めしいか?この、私が」

「まさか!そんなことはありません。ただ、驚いてしまって……。
局長になられていたのですね」

名前が漸く合わせた彼の瞳は罪悪感に染まっていた。それから間もなくして、彼は名前に対して頭を垂れる。

「あの時は本当に申し訳なかった」

それは、痛々しいほどに真っ直ぐな謝罪だった。名前は直ぐに顔を上げるように声を掛ける。

「謝らないでください。貴方は検事として正しいことをしただけですから」

尚も食い下がろうとする彼に、名前は微笑みを浮かべて続けた。

「あの時は確かに、貴方のこと恐ろしいと思っていました。この人は何を言っても、決して味方にはなってくれないんだろうって。
でも、龍ちゃんに救われて。あれから色々ありましたけど、今こうして貴方と言葉を交わせることを嬉しく思います」

自分で口にした言葉が、すっと腹に落ちるのを感じる。いつの間にか胸につかえていた感情も消えていた。名前は心から、彼にまた会えて良かったと、そう思っていたのである。

「私のことを、覚えていてくださってありがとうございます」

彼女の声に男は涙を浮かべた。あの日から今まで、ずっと彼女のことが気にかかっていたのだ。弁護したのが彼でなかったなら、名前は今より大きな傷を背負っていたかもしれない。

──父親殺しという名の大きな傷を。

彼は涙を拭うと、思い出したように口を開いた。受験者リストから彼女の名前を見つけた時には大きく衝撃を受けたものだ。

「私の認識が正しければ、君は検察官を志望しているらしいが」

掛けられた問いに、名前は静かに頷いた。法曹三者のうち、試験の際に丸をつけたのは検察官である。

「法曹界を志すとしても、君は恐らく弁護士になるだろうと思っていたのだ」

「……私も、最初は弁護士になろうと思っていました。龍ちゃんや千尋さんのような」

だが、彼に出逢ってしまった。御剣怜侍という男に。そして彼女にはもう一つ、検察官を志した理由があった。

「最近では有罪にすることを正義とする検事がいるという話を聞き及んでおります。
私にはそれが正しいとは思えません。真実を追求するのが法曹三者の役目。ならば検察官となり、その役目を果たしたいと考えました」

「成る程。流石、彼の背を見てきただけのことはある」

彼は一度ふ、と笑みを浮かべてから、内線を取る。その表情はもう、威厳ある検事局長のものに変わっていた。

「御剣くんか。ああ、私だ。先日の話だがな、やはりお願いすることになりそうだ。今時間があるようなら、執務室に来てくれないか?」

それから二、三度相槌を打った後、彼は受話器を置く。名前は彼が口にした名前に些か動揺していた。御剣とは、あの御剣だろうか。そして己の理解が正しければ、彼は局長に呼ばれて今からこの執務室に来るらしい。

狼狽する名前を他所に、彼を呼んだ張本人は呑気に紅茶を啜っている。そして追い出されないところを見ると、"先日の話"にはどうやら己が一枚噛んでいるらしかった。答えの出ない自問自答を脳内で繰り返す彼女を我に返したのは、程なくして響いたノックの音である。

「失礼致します」

聞き紛う筈もない、御剣とはやはりあの御剣であった。振り返ればいつもより深く眉間に刻まれたヒビが目に入る。ああ、とんでもなく機嫌が悪そうだ。

「正気ですか検事局長殿。司法修習生に、一介の検事が専属で付くなど」

「何度同じ事を言わせるつもりだ。彼女は司法試験を他の追随を許さぬ成績で合格し、試験官から唯一筆の動きが止まらなかったと報告を受けている。
故に、検事局始まって以来の天才検事の元で経験を積むことで、より優秀な検事に育てると」

「検事局長殿!だからと言って一人だけ特別扱いするのは如何なものかと……!」

どうやら、己の窺い知れぬところでとんでもない話になっているらしい。彼女にとっては願ってもない話だったが、教育係に任命された御剣には面倒事以外の何物でもないのだろう。

「特別なのだ、彼女は。足りない物は経験だけだと私は考えている。故に君に頼みたいのだ、御剣くん」

特別だとキッパリと断言した彼に、御剣は思わず絶句した。素人の分際で己に意見して来た女だ、確かに彼の中で特別な存在ではある。しかし、デスクワークが主な仕事である検事局長と、ついこの間試験に合格したばかりであるこの娘との間に一体どんな繋がりがあるというのか。御剣にはどうも解せなかった。

「ふむ……。君が多忙であることは私も重々承知している。
君が執務を行う上で彼女がその妨げになるようなら、彼女を罷免とし、君をこの任から解こう。それなら構わないか?」

「な……ッ!そのようなこと、この者は承諾しているのですか!?」

御剣が狼狽えるのも無理はない。司法試験成績優秀者ならば、司法修習生として研修を受ければ二回試験も受かるであろうことは想像に容易い。しかし、彼の言っていることは余りにもリスクが高過ぎる。言ってしまえば御剣の裁量一つで、彼女は罷免となり再試験を受けることとなるのだ。

確かに、普通の実務修習よりは経験値を積むことは出来るかもしれないが、彼女がこれを承諾するとは到底思えなかった。

「名字くん、どうだね。彼の元で経験を積むか、司法修習生として研修を行うか、君が決めるといい」

そんなこと、聞かれる前から決まっている。彼女の目的は、法廷で真実を追求すること。そして、御剣を深淵から救い出すこと。その為には、一刻も早く彼に検事として認めてもらう必要があるのだ。

「そのお話、謹んでお受け致します。
御剣検事殿、どうぞ宜しくお願い申し上げます」

御剣は、馬鹿げている、と頭を抱えたくなるような心地だった。自分に意見してきた女がここまで愚かだったとは。だが、鬱陶しい彼女を遠ざける口実が出来ると思えば、そう悪くない話であるのかもしれなかった。

「では、御剣くん、明日から彼女のこと宜しく頼んだよ」

「……仰せのままに」

裁判の傍聴中に幾度も見たあの美しい礼の後、御剣さんは局長室を後にする。私は局長さんに向き直ると、思い切って不満を口にしてみた。

「どうして今の話一言も教えてくださらなかったんですか!」

「いやあ、すまない、言ってなかったか?」

「言ってません!」

そう言い放った時、彼と目が合ったのが何だか面白くて二人で笑い合う。それから暫く笑いこけたあと、私も千尋さんのところへ帰ることにした。

「あ!そうだっ」

ロビーまで送るという申し出をやんわりと断り、廊下に出たところであることを思い出す。不思議そうに首を傾げる局長さんに、伝えておきたいことがあったのだ。

「今度は是非、お花だけじゃなく、病室にも足を運んでください。龍ちゃんもきっと喜ぶと思います」

「っ、ああ、そうさせてもらおう」



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