今はまだ、幸せな歌は歌えない
【2014年 11月 18日 午後 4時 13分 医療センター 病室内】
ガラリと入り口の扉が開かれた音で、名前は目を覚ました。寝呆け眼を擦りながら振り向けば、ロングヘアーの上品な美人──綾里 千尋の姿。
お疲れ様です、と少し掠れた声で名前が口を開く。千尋はそれに笑顔で答えるとベッドの脇、彼女の隣に腰掛けた。
「どう?勉強は、捗っているかしら?」
千尋の問いに、名前はう、と言葉を詰まらせる。眠りこけていたのを思い切り目撃されているのだ、無理もない。
「龍ちゃん見てると眠くなっちゃって、ダメですね」
ベッドに横たわる男──神乃木荘龍にデコピンをお見舞いしつつ、名前は笑う。
彼がこうして深い眠りについてから、もう二年になる。色素が抜け落ちた髪は白く、医療機器へと幾重にも繋がれた管(くだ)がなんとも痛々しい。
「名前ちゃんが検事になると言い出した時は驚いたわ。けれど、今は法廷で対峙することを楽しみにしているから、頑張ってね」
威圧感のある笑顔に口元を引き攣らせながら、名前は何とか一言、ハイと答えることに成功した。
「冴えない顔してますけど、何かありました?」
それから少したわいもない会話を交わした後、名前が口を開く。千尋は彼女の言葉に溜息を吐くと、絞り出すように言葉を紡いだ。
「知り合いの弁護士の裁判を傍聴しに行ってきたのだけど、相手検事があの御剣でね。弁護側が現場を調べた時にはなかった証拠が出てきたの」
「あー、あの証拠のでっち上げとか裏取引の噂が絶えない人ですか」
「勿論、弁護側が見落とした可能性もあり得るわ。……けれど、そうではない可能性もあるの」
初審議の時から期待され、それから二年経った今でも一度も無罪判決を出したことのない天才検事、御剣 怜侍。そう言ってみれば聞こえはいいが、その裏有罪判決を獲得する為なら手段を選ばない鬼検事としても知られている。
事実、神乃木を見舞いに来る弁護士の中にも御剣の名を苦々しく口にする人間は少なくない。
「判決はもう出たんですか?」
「いいえ、まだよ。でも首の皮一枚ってところね。どちらにせよ明日には判決は下るわ」
御剣に一日、証拠を偽装する時間を与えてしまったことはあまり良い状況とは言えないようだった。
──裁判所では2012年に、序審法廷制度を採用している。これは、犯罪件数の増加に伴い迅速に処理出来るようにと、容疑者が有罪か、無罪かのみを最長三日以内で審理する制度だ。
そしてこの裁判において明日が、その三日目であった。
「明日の法廷、私も見に行きたいです」
検事を志す身としては、証拠を偽装する検事などにわかには信じ難い。皆が忌々しく、口にするその男を名前は一度見てみたかったのだ。
「構わないわ、裁判は10時から、第五法廷よ。私も依頼が入らなければ傍聴しに行くから」
名前が頷いたのを確認し、千尋は時計の時間を確認する。
「もう直ぐ日が落ちるわね。今日この後真宵と会う約束があるのだけれど、一緒に来ない?帰りは家まで送るから」
「真宵ちゃんですか!?会いたいです!行きます!」
千尋の妹である真宵は、名前と年が近く同年代の友達があまりいない彼女は真宵と話すのがとても好きだった。それを知っている千尋は都合が合えばこうして名前を誘っている。
「じゃ、早速行きましょうか。
……また明日ね、荘龍」
彼女は神乃木の頬に口付けを落とし、踵を返した。千尋が病室を離れる時、彼女は必ずこうして神乃木に触れる。確かに生きていることを自分ので身で感じたいのだと、彼女は以前名前に語った。
名前は彼に向けまたね、とだけ呟き、千尋の背を追った。