静寂に爪弾く


張り詰めた沈黙に包まれていた空間は、試験官が去ったと同時に重々しい溜息で満たされた。皆、一様に疲れきった表情を浮かべている。名前も例外ではなく、じくじくと鈍く痛む瞳を少しでも癒そうと瞼を閉じていた。

「名字さん」

椅子を引く音や衣擦れの音をぼんやりと聞き流していた彼女は、掛けられた声に伏せていた顔を上げる。その訝しげに歪められた表情に、声の主である成歩堂は慌てて言葉を紡ぐ。

「な、名前、千尋さんに訊いたんだ。その、話がしたくて」

「……千尋さんを待たせる訳にはいかないので、手短にお願い致します」

淡々とした声に交じる確かな拒絶に、成歩堂は息を飲んだ。返す言葉すら飲み込みそうになり、彼は強く拳を握る。千尋が成歩堂に教えたのは名前の名のみで、それ以外は自分で訊け、と背中を押されたばかりなのだ。

「ここじゃなんだから、場所を移さない?千尋さんには僕から言っておくから」

名前は暫し思考を巡らせた後、素直に席を立った。千尋が彼女の名を成歩堂に伝えたということは、少なくとも二人が話をすることに反対はしていないということだと名前は考えたのである。彼女には自分の感情よりも、周りの人間を優先することが多くあった。この自己犠牲ともいえるものは、癖としてその身に染み付いている。そして、そのことを千尋もよく知っていた。


2人が場所を移し腰を下ろしたのは会場から数分のところにある、こぢんまりとしたカフェ。試験中の張り詰めた空気とは対照的に、ゆったりとした時間が流れる空間である。

「それで、ご用というのは?」

名前が口を開いたのは、向かい合って座る二人の間に白い湯気の立つ香り高いコーヒーが運ばれて来た頃だった。唸るばかりで本題を口にしようとしない成歩堂に痺れを切らしたのである。

「その、もしかして……いや、もしかしなくても、僕、名字さんに嫌われてるのかなあって」

後頭部に片手を回し、へらりとした笑みを浮かべて成歩堂が言う。何も答えず、ただ真っ直ぐに彼を見つめる瞳に、成歩堂は慌てて言葉を続ける。

「ほ、ほら!試験に合格したら、同期ってことになるし、千尋さんっていう共通の知り合いもいるし……仲良くしたいなって思ってさ。
それに、君に何かしてしまったのなら、謝りたいと思ってる」

名前は決して、理由なく他人に対してぞんざいな態度は取らない。そう千尋が漏らした微かな呟きを成歩堂は確かにその耳で拾っていた。

彼のその言葉を皮切りに、名前は俯いて黙り込む。何を口にするべきか、考えあぐねているのである。

「わた、しは、貴方と仲良くなんて、出来ません」

暫しの間の後、彼女はゆっくりと口を開いた。成歩堂の鼓膜をしっかりと叩いたそのか細い声は、彼の胸にじんわりと嫌な水溜りを作るように広がる。

「貴方のこと、きっと何があっても許せないと思います。千尋さんから、私から、龍ちゃんを……彼から未来を奪った貴方のこと」

名前の目は真っ直ぐに成歩堂の瞳を射抜く。成歩堂は、心臓を突き刺されたような心地だった。彼女の言葉だけを拾えば、まるで人殺しである。そんな行為、これから法曹の世界へと足を踏み入れようとしている己に、身に覚えなどあるはずもない。

「それってどういう……」

言いかけて、成歩堂は言葉を失った。名前が放った一言を反芻して、背に冷や汗が流れるのを感じる。

リュウちゃん、と彼女は確かに口にした。心の奥底へ仕舞った記憶がフラッシュバックのように脳裏に蘇る。

成歩堂はかつて、愛した女にそう呼ばれていた。けれど、彼女にもう会うことはない。それに名前は、彼女とは似ても似つかない容姿をしている。千尋から何かを奪ったという心当たりも、やはりなかった。

「もう話すこともないようなので、失礼致します」

俯きがちの名前の表情は、成歩堂には窺い知ることが出来ない。ただ去っていく背中を、彼は呆然と見つめる。机の上に置き去りにされた冷めきったコーヒーがそんな彼の横顔を黒く映し出していた。


「機嫌悪いみたいだけど、どうかしたの?」

千尋が運転する車に揺られること数分、窓の外に視線を投げていた彼女にそう声が掛かる。分かりきっているくせに、と心の中で毒づきながら、千尋に向き直った。

「私、千尋さんみたいに強くなれません。……少なくとも龍ちゃんが目を覚ますまでは、どうしても許せないんです」

千尋はその声に何も答えず、ただハンドルを強く握る。シンとした静寂の中、名前は緊張の糸が切れたように眠りに落ちた。




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