白い紙に吐き出した言葉
【5月13日 午前 8時2分 都内某所】
司法試験当日。千尋に送ってもらい、名前は会場へと来ていた。この日の為にこれまでを積み上げて来たのだ。
ピリッとした緊張の面持ちの中には、確かな自信が浮かんでいる。車内にて千尋から喝が入り、修行の為に今日ここには来れない真宵からも昨夜電話にて激励を受けた彼女の士気は十二分に高まっていた。
「論文式の点数も申し分ないし、大丈夫よ」
千尋はそう微笑み、名前の髪を撫でる。彼女は目を細めてそれを受け、同じような笑みを浮かべた。
「千尋さん……?」
そんな時、二人の鼓膜を揺らしたのは少し高めの男性の声。振り返りその主を確認した彼女達の表情は対極的に歪められた。千尋は嬉しそうに破顔し、名前は親の仇でも見るように眉を顰めている。
「なるほどくん、久し振りね」
千尋の柔らかい声に頬を緩めた彼は、彼女に近付くと深々と頭を下げた。お世話になりました、とそう口を開く成歩堂の肩を叩き千尋は再び微笑んだ。
再会話に花が咲く前に、と名前は彼女の服を遠慮がちに引く。
「いってきます、千尋さん」
試験開始まではまだたっぷりと時間は残っていたが、名前にとって、この場に居続けることはそれだけ耐え難いことだった。戸惑いつつも返ってきた声を確認し、彼女は足早にその場を後にする。
「集中しなくちゃ」
雑念を振り払うように首を振り、息を深く吐く。上げられた瞳は真っ直ぐ前を見据えていた。
張り出された紙に従い、教室に向かえば既に三人ほど先客がおり、その全てがテキストと睨めっこを繰り広げている。受験番号の通りに席に座り、名前は机に突っ伏す。
やれるだけのことはやった。後は集中力を切らさなければ、きっと大丈夫。
彼女はそうして深く深く息を吐き、己とその他の空気とを隔離することに専念する。
そんな名前の空気が乱されたのは、着席時間の五分ほど前のことだった。
「君、千尋さんの知り合い?」
彼女は胸が重くなるような嫌な感覚を抱えつつ、その声に顔を上げる。その主である成歩堂はどこか頼りない笑顔を浮かべながら名前を見下ろしていた。
「ぼく、昔千尋さんにお世話になったことがあって……」
「知っています。それより、もう試験官の方もいらっしゃいますよ。席についたら如何ですか?」
拒絶。成歩堂の言葉に被せるように放たれた声には、その二文字の感情しか宿っていない。
「それと、気が散るので話しかけないでください」
戸惑ったように短く声を漏らす彼を一瞥し、名前はそう言い放つ。その瞳は強い憎悪を色濃く孕んでいて、成歩堂は何も口にすることも出来ず、半ば逃げるように自らの席へと腰を下ろした。
彼女がこんなにも己の感情を露にするのは珍しいことである。いつも一歩引いて他人と接する名前にとって、彼はある意味で特別な存在であった。
結局彼女が切れてしまった集中力を取り戻したのは試験開始の直前、配られた解答用紙に触れた瞬間だった。ついに本番なのだという今更ながらに沸いた実感に、奮い立たされるような心地を抱きつつ、文字が敷き詰められたそれを睨む。
決して速筆ではない彼女が、設問の全てを埋めたのは試験終了間際だった。とても答えを見直す時間は残されていない。それでも時間内に終わったことに胸を撫でおろし、ふと右斜め前の方に腰掛ける成歩堂へ視線を向ける。
後ろからでは分かることは少ないが、肩が動いている所を見るとまだ解き終わっていないのだろう。名前は数秒その背を見つめ、試験官が口を開くのを待った。
*
1日の中日を挟み4日間に渡って行われる司法試験は、体力的、精神的に過酷を極める。平均して2時間の試験時間、1時間の休憩時間を3回ほど繰り返して1日が終わり、その拘束時間は日を追うごとに短くなっていく。
だが、最終日になればやはり大半の受験者には疲れが見え始める。それは名前も例外ではなく、凝り固まった身体と頭をほぐすことに休憩時間の殆どを割いていた。
けれど彼女は短答式試験を得意としているために、その表情は晴れ晴れとしている。民法、憲法と続いた試験の手応えは上々で、後は刑法を残すのみとなっていた。
時折成歩堂から注がれる視線には気づかない振りをして、彼女は最終試験問題へと意識を集中させる。
「御剣さん」
小さく呟かれたその一言は、誰の鼓膜をも揺らすことはなく、配られた答案用紙に溶けていった。