後ろを向くのはもう辞めた


【3月7日 午後 4時58分 神乃木荘龍の病室】

ガラリと戸が開いた音で、名前は手元の資料から意識を上げる。見れば何時ものように神乃木を見舞いに来た千尋の姿。しかし日頃とは違い、その表情は固く、手には数冊の雑誌が握られていた。

「……名前ちゃん、ついに尻尾を掴まれたみたいよ、彼」

神乃木への声掛けもそこそこに、千尋は雑誌の付箋が貼られたページを開く。

"天才検事に疑惑の声!証拠隠滅に証言操作か!?"

広げられたどのゴシップ誌にも、似たような見出しが躍っている。そしてその全てが同一人物を指していた。

──御剣怜侍。弱冠20歳で検事になってから無敗を誇る天才。

そんな彼に噂が立つのは珍しいことではない。

しかしそれは対峙した弁護士や一部の傍聴人に限ったことであって、こうして記事に取り上げられるのは初めてのことである。名前は食い入るように、書かれた文字を追う。

「彼が扱う初めての大きな事件だったのよ。世間の注目も相当だったわ」

淡々とした声で千尋が呟く。記事を睨み続けている名前には、その表情を窺い知る事は出来ない。

「……そうですか」

全てに目を通した彼女は、ただ一言だけ淡々と零した。記事に書かれた事柄は多少の誇張はあれど、偽りではないように思える。

しかし。証言操作はまだしも証拠隠滅を検事一人で出来るかと言えば、否である。それを日常的に繰り返しているのならば当然、御剣直属の部下である糸鋸も協力者であるということだ。

一度軽く会話を交わした程度の関係ではあるが、糸鋸は自らの仕事に誇りを持っているように見えたし、何より御剣を尊敬しているように感じられた。

「きっと、何かあるんです」

何かの間違いだと口にするには、あまりにも彼らを、法曹を知らなすぎる。けれど全面的に記事を肯定することも、出来なかった。

名前は雑誌を纏めて立ち上がるとヘッドボードにそれを収める。それから、その上に腰掛けるようにして置いてあった60センチ程のテディベアを抱えた。

老朽化からギシリと音を立てる椅子に腰掛け、彼女は抱き抱えるようにして膝の上に乗せたそれに顔を埋める。

お世辞にも小さいとは言えない薄い橙色のクマは、初めて千尋に会った時に彼女から貰ったプレゼントだった。神乃木以外の人間を受け付けなかった名前に少しでも警戒されないようにと、千尋が考えに考え抜いて買ってきた触り心地抜群の代物である。

名前が彼女と初めて言葉を交わしたのはそれから再三と顔を合わせてからであったが、受け取って以来ずっとそばに置いていた。

神乃木の帰りが遅く心細い夜も、夢見が悪く寝付けない夜も、雷の爆音に肩を震わせた日も、茹だる様な暑さの日も、片時も離さずに。

千尋から貰ったからと安直なネーミングセンスで"ちいくま"と名付けて。

或いは、当時の彼女の唯一の拠り所であり、"友達"であったのかもしれなかった。

そして今も自分の世界に閉じこもりたい時や眠れない時にこうしてクマを抱きしめる癖は抜けていない。千尋はそれを微笑ましく思いながら、彼女の髪を撫でる。

「そうそう、論文式の試験対策にいくつか問題を作ってきたから解いてみない?」

「是非!」

名前は二つ返事でそう答えると、差し出された紙束を手に机に向かう。

サイドテーブルに山積みにされた参考書の中の一冊を適当に引っ張り出し、千尋は採点を始めた。論文式の問題は明確な答えが存在しない為、知識や経験が豊富な法曹人が見てやるのが一番なのである。

そうして二人の腹の虫が騒ぎ始めるまで病室内には、紙の上を滑るペン先の音だけが響いていた。



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