A lonely angel.


【2015年 1月23日 午後 1時24分 地方裁判所 一階ロビー】

──真実を見つけ出す為に検事と弁護士が居るんです。

名前がそう御剣に言い放ったあの日から彼女は勉強の合間を縫って地方裁判所へと足を運んでいた。裁判を知るには紙束と睨めっこするよりも実際に傍聴した方がはるかに学ぶことが多いのだ。

千尋の裁判を傍聴することが主であったが、稀に時間が合えば御剣の裁判に赴くこともある。この日も例に漏れず彼の裁判を傍聴した後だった。

無論判決は"有罪"。被告人や弁護人を見下す瞳の冷たさも、勝利が決した時の嘲笑うような笑みも、そして少しだけ悲しみを帯びた伏目がちの睫毛も相変わらずだった。

裁判の様子を思い出して溜息を吐いた名前は、乾いた喉を潤す為自動販売機のある控え室前の廊下へと向かう。

廊下へ通じる扉を開くと、裁判所の名物を売る自動販売機の前で大きな影が道を塞いでいた。名前の存在に全く気付いていないその男は自動販売機と睨めっこしては、うんうんと唸っている。その呟きから察するに、どうやらお金が足りないらしい。

「あの、お困りですか?」

彼の奥にある自動販売機で飲み物を買うのも何だか気が引けて、彼女はその背に声を掛けた。急に掛かった声に男は驚きから肩をびくりと揺らし振り返る。

照れたように目を逸らしつつ後頭部を掻くその姿に、名前は見覚えがあった。男が口を開くより先に、彼女が言葉を紡ぐ。

「糸鋸刑事……?」

名前の言葉に彼は目を見開いて彼女の顔をまじまじと見つめる。それから申し訳なさそうに眉を下げた。

「すまねッス。自分人の顔と名前を覚えるのが苦手で……どこかで会ったことあったッスか?」

「先程の裁判を傍聴していたので、存じ上げているだけです」

糸鋸が口にした謝罪に、名前は首を横に振る。それから納得したように頷く彼を確認し続けた。

「それより、どうされたんですか?」

「ああ、どら焼きが食べたかったんスけど、300円しか持ってなかったッス。ずっと見てたらバラ売りしてくれるんじゃないかと思ったッス」

やはり、お金が足りずに唸っていたらしい。糸鋸の後ろを覗き込むようにして自動販売機を見やれば、確かにどら焼きは二つで600円と記されている。妙案を思いついた名前はがっくりと肩を落とす糸鋸に笑みを向けた。

「なら、300円ずつ出し合って一つずつ分けませんか?」

「い、いいんスか!?自分にはアンタが女神様に見えるッスよ!!」

名前は彼の言葉に大袈裟ですよ、と短く答えお金を受け取る。購入ボタンを押し、ガコンという独特の音と共に取り出し口を揺らしたどら焼きを糸鋸に手渡した。それから隣の自動販売機で冷たいお茶を二本買うと、廊下の突き当たりにある椅子に二人で腰掛ける。

「お茶まで奢ってもらっちゃって、申し訳ないッス。最近御剣検事に冷たくされてばっかりだったッスから、染みるッス……!」

彼が紡いだ名を名前は無意識に反芻した。感慨深げなその呟きに糸鋸は首を傾げる。

「御剣検事のお知り合いだったッスか?」

「……いえ、そんなんじゃありません。一方的な片想いです」

瞳を伏せながら放たれた言葉に、彼は目を見開く。それから思い切り立ち上がって叫んだ。

「か、片想いッスか!?あの御剣検事に!?!?」

「……私がどうかしたのかね?糸鋸刑事」

糸鋸の絶叫に近い声に答えたのは名前ではなかった。静かで凛とした低めの声。顔を見なくても分かる、と彼女は苦笑いを浮かべる。決して視線を上げることなく手元のペットボトルを見つめ続ける名前に、自嘲と怒りを孕んだ声が掛かった。

「今日の裁判も不服だったかね?」

その言葉に彼女は勢い良く顔を上げ、かち合った視線に息を飲んだ。自嘲の色が強い彼の瞳に何時ものような鋭さはない。名前は胸の内に罪悪感を抱きながらも、御剣の目を真っ直ぐに見つめて口を開いた。

「覚えて、いらっしゃったんですね」

「無論だ。この私に直接物申してくる者など、そうそう居ない。加えて幾度も裁判の傍聴に来られれば尚更だ」

彼の言葉に名前は苦く笑む。裁判中に不快な思いをさせたら申し訳ないと、彼女は決まって検察側の端に腰掛けるようにしていた。気づいていたんですね、と呟けば御剣は声を発するか暫し逡巡する。

彼の視線が自らの頭部に注がれているのに気付いた名前は、納得したように、ああ、と声を漏らす。気まずそうに眉根を寄せる御剣に笑みを向け、彼女は続ける。

「確かに目立ちますよね、この髪色じゃあ」

胸元まで伸びる艶やかな名前の髪は、雪のように真白い。一切黒の混じらないそれは、普通の日本人から見れば異端だ。彼女はもう何年も好奇の目に晒されてきた。故にそういった事には慣れているし、気を遣わせることに対して申し訳なくも思っている。

一時は確かに、人と違う白髪に嫌気が差し黒染めを試みたこともあったが、神乃木が倒れてからはそれもやめた。今では彼と揃いなこの色を好いてすらあるのだ。

「今日の裁判は素晴らしかったです。とても」

お疲れ様でした、と続けた名前に、御剣は面食らったように目を見開く。その様子に、彼女は苦笑いを零した。

「根拠もなしに、御剣さんを責めたりしませんよ」

名前の言葉に彼が短く答えた後、二人の間に会話が生まれることはなく、気まずく思った糸鋸が沈黙を破る。

「そ、そういえば御剣検事、いつからいらしたッスか?」

「ム?君が私の名を騒々しく呼んだあたりからだが」

首を傾げる御剣に彼は、ほっと胸を撫で下ろした。どうやら名前の片想いを暴露せずに済んだらしい。

それから二三言葉を交わし御剣が検事局へ戻っていくと、彼は短く息を吐いた。

「去年、御剣検事にいちゃもんつけたのアンタだったッスね。凄かったんスから!あの時の御剣検事の荒れようといったら……もう、次の月の給料は諦めるレベルだったッス」

はあああ、と長ったるい溜息とと共に糸鋸が身震いしながら口を開く。名前は謝罪を述べながらその手に自らのどら焼きを乗せた。

「それにしても、あの御剣検事に食ってかかるなんて自分には絶対真似出来ねえッス」

どら焼き一つで態度をガラリと変えた糸鋸に彼女が笑みを浮かべていれば、彼は唐突にそう呟く。特に答えを求めているような呟きではなかったが、名前は敢えてそれに答えた。

「御剣さんを、あの場所から救うのが私の目標です」

口に出せば、しっくりと彼女の心に降る。糸鋸からはそれが名前の瞳に強い光が宿ったように見えた。言葉は発するべきでないと悟った彼は、ただ黙々と手元のどら焼きを胃に入れることだけに専念する。

名前は急く心を宥めるように強く拳を握りしめて、4ヶ月後に迫る司法試験に思いを馳せた。



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