殺したはずの感情


3月3日。桃の節句である今日、小さな花屋を一人で営む名前に休息の時はなかった。前々から準備していた桃の花をあしらったフラワーアレンジメントは飛ぶように売れ──まではいかなくとも、客足が絶えることはなかったのである。

買い物帰りであろう親子、照れたように笑うサラリーマン、手を繋いでゆっくりと歩く老夫婦。名前によって店先に丁寧に並べられた大小様々なそれは、店前を通る沢山の人々の足を止めた。

人が人を呼ぶ形で賑わった店内は、夕暮れ頃に漸く収まる。息つく暇もなく閉店準備を始めれば、怒号混じりの喧騒が近付いてきた。どうやら大捕物らしいそれは、運悪く彼女を巻き込んだ。

多くの足音と共に、ガラスや陶器の割れる音が店内響く。逃走中であろう男が名前の店を入り口から裏口に掛けて通り抜けた所為で、後を追う警察官に引っかかりたくさんの花瓶が地面に叩きつけられた為である。

無論その程度で足を止める者はなく、名前は暫し放心したのち倉庫へ掃除道具を取りに向かう。無残に踏み潰された花々は先程までの凜とした面影は欠片もなく、彼女の心に更に影を落とした。

「ジャスティス!」

突然名前の鼓膜を揺らした場違いな声に、彼女は危うく手に持った箒を取り落としかける。驚きからどくどくと鳴る心臓を落ち着かせながら名前は振り返った。

「あの……?」

「すまない。ジブンの仲間が迷惑を掛けた」

深々と頭を下げる白いスーツ姿の男に、名前は慌てて顔を上げるように促す。仲間と言うからには彼も警察官なのだろう。追われていた男の仲間が目の前にいるとは考えたくもなかった。

不安げな彼女の瞳に気が付いたのか、男は胸元から警察手帳を取り出して掲げて見せる。そこには彼のものであろう、番轟三という名が記されていた。

「ばん、さん」

「うむ!手伝うぞ名字くん」

名前が首から下げていた名札に書かれていた名字をなぞるように呼び、番は彼女から箒を半ば強引に受け取る。

「キミは花を片付けてくれたまえ」

彼はそう言うや否や割れて散らばった破片を集め始めた。名前を鋭利に尖った欠片に決して触れさせないように気を遣っているのが感じ取れて、そのさり気ない優しさに彼女は笑みを漏らす。

「ありがとうございました」

見掛けによらず器用にテキパキと動いた番のお陰で、片付けに然程時間は掛からなかった。最後に水に濡れた床を拭き、名前は礼を述べる。彼は元はと言えばこちらの非であるからと首を振った。

「ダメになってしまった物は警察の方で弁償するから遠慮なく言ってくれたまえ!」

番の言葉に、今度は彼女が首を振る。差し出された請求書を軽く押し返し、名前は口を開く。

「手伝ってもらった上に、お金なんて頂けません。花瓶の替えは倉庫に沢山ありますから、お気になさらないでください」

渋る彼に痺れを切らした名前は、被害を免れた桃の花のフラワーアレンジメントを番に手渡す。

「小さいですけど、心を込めて作ったので……買って頂けますか?」

小ぶりのそれはワンコインにも満たないが、彼女の自信作だった。番は呆れたように息を吐いてそれを受け取る。

「ありがとうございます!」

名前はそう言うと、ぱあっと満面の笑みを咲かせた。彼はその笑顔に言葉を失う。

「番さん?」

それから押し黙ってしまった番を不思議に思った彼女は覗き込むようにその表情を伺った。彼は名前の真っ直ぐな瞳に我に帰る。しかし、微かに揺れた感情から生まれた動揺はそう簡単に隠せるものではなく。

番は適当な言葉を並べて、その場から逃げるように店を出る。後には首を傾げる名前が残されたのだった。



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