枯れ果てた正義


店のシャッターを下ろして名前はやっと息を吐いた。今日も何事もなく一日が終わった、と。

一人で経営するこじんまりとした花屋。それでも管理の行き届いた花々は評判が良く、客足も絶えない。

今日も充実した一日だったと晴々とした表情で彼女は後片付けに取り掛かった。掃除、花の手入れ、売り上げの計算、明日の準備などやることはまだまだ山積みだ。

よし、と呟いて意気込んだところでエプロンに入れていた携帯が震える。出鼻を挫かれ少し頬を膨らませつつ振動音を響かせるそれを手に取れば、ディスプレイには"番 轟三"と自らの恋人の名前が表示されていた。

いつもなら胸が躍るそれに、今日は何故だか息が詰まる。せり上がる嫌な予感を押し込めるように首を振って、通話ボタンを押した。

「もしもし」

数秒の間。スピーカー越しから返答はない。名前は首を傾げつつ音量ボタンなどを押してみるが、状況は変わらなかった。電波も良好でどうやら携帯の不具合ではなさそうだ。

「もしもし?番さん?」

いくら呼びかけても返事はなく、ただ苦しげな荒々しい吐息が微かに鼓膜を揺らしている。彼女は背に冷や汗が流れるのを感じながら、携帯を握る手に力を込めた。

「轟三さん!!」

半ば叫ぶようにして彼の名を口にすれば、漸く反応が返って来る。掠れた声で呟かれた一言に名前は目を見開いた。言葉の意味を追求する間もなく、無機質な機会音が通話の終了を告げる。何度掛け直しても電話が再び繋がることはなかった。

名前は乱暴にエプロンを外すと、レジ裏にある倉庫のハンガーに掛けてあったトレンチコートを羽織る。番が口にした一言が彼女を突き動かす。色々な感情が渦巻き泣いてしまいそうなのを必死で堪え、名前は店を飛び出した。


長い間走り続けた所為で足と肺が悲鳴を上げている。何かに引きつけられるようにして向かった先は裁判所だった。

辺りを見渡して見覚えのある背を見つけ、彼女は酷く咳き込む。そんな名前に気付き振り返ったその瞳は揺れていた。

「……やっぱ来ちまったかァ」

彼女が落ち着くまで背中をさすり続けていた夕神が独り言のように呟く。その両手首に手錠がないのを見て、名前は何となく状況を理解した。

──先程の番の言葉は聞き間違いなどではなかったのだと。最近感じていた違和感は決して勘違いなどでははなかったのだと。

「オッサンが緊急逮捕された」

どくどくと煩い心臓を他所に、頭だけは冷静に働く。事の次第を話す夕神の声を彼女は淡々と聞いた。内容はすんなりと頭に入ってくるのに、まるで心が死んでしまったみたいに何の感情も浮かんでこない。

もっともらしい理由をつけて夕神は番のことを"亡霊"と呼んだ。死者を形容するその単語を聞いて、停止していた名前の思考が再び回転する。

──番さんは死んでなんかいない。

確かに名前は彼に触れたのだ。その時にじんわりと肌に染みたあのぬくもりは偽物などではなかった。

「番さんは、今どちらに?」

夕神の両眼を真っ直ぐに見つめ、名前が問う。彼はバツが悪そうに表情を歪める。尚揺るがぬ彼女の瞳に押し負けて、夕神は重々しく口を開いた。

「……裁判中に撃たれてなァ。幸い命には別状はねェ。今は警察病院で手当を受けてるだろうぜ」

「そう、ですか……」

電話越しに聞こえてきた番の荒々しい吐息の理由を知り、名前は言葉を失う。側に居たところで何も変わらなかったと分かっているのに、身体の奥底からせり上がってくる言い様のない感情を押し殺すことは出来なかった。

「面会出来る様になったら、声掛けてやらァ」

唇を噛み締める彼女の髪を不器用に撫でて夕神が呟く。名前は無理矢理に笑ってそれに応えた。

「まだ仕事が残ってるンじゃねェのかい?送ってってやらァ」

彼女は夕神に促されるまま裁判所を後にする。花屋へと向かうタクシーの中で、名前はぼんやりと番と出逢った時のことを思い出していた。



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