人形の館にて3


2.紫苑


その日の夜、紫苑はぼんやりと本を読んでいた。
暖かなランプを一つ灯し、文字を追う。趣味の一つが読書になったのは、ほかでもないネズミの影響だった。
彼はシェイクスピアが好きだった。紫苑は彼の朗読が好きだった。彼と共に読書をする時間が好きだった。言葉も交わさず背中合わせで、彼の呼吸と体温を感じる時間が好きだった。一緒に食事をして、たわいもない会話をして、同じベッドへ入る。そんな日常が大好きだった。

しかし今、紫苑の隣に求めた温もりは無い。
紫苑は読んでいた本にしおりを挟み、ゆっくり閉じた。
そっと窓辺に立ち、彼の部屋を見やる。紫苑の部屋は西側の角に位置していた。そこからはよくネズミの部屋が見えた。彼の部屋も、ぼんやり灯りが灯っている。
あの動きもしない人形に囲まれて、彼は一体何をしているのか。何を考えているのか。
ネズミが壊れてしまった理由はよく分からない。


おそらく……数年前、紫苑が大事故で意識不明の重体になってしまったことが関係あるのだと思う。そう、それまでは普通の少年のネズミだったのだから。
一時は命を危ぶまれた紫苑が、やっと目を開いた時ネズミは傍にいなかった。回復を待ち、ようやくネズミに再会できた時。彼の目に、本当の紫苑は映っていなかった。
自分そっくりの人形を作り、自分そっくりの人形を「紫苑」と呼び、自分そっくりの人形を慈しむネズミがそこにいた。
ああ、ネズミは壊れてしまったのか。


「紫苑、今日は朗読しないのか」
と、人形に話しかける姿に涙が込み上げた。
(ぼくが死んだと思ったのか。ネズミ)
「ネズミ、その人形は紫苑じゃない。紫苑はぼくだよ、ネズミ!」
そう告げた時もあった。
しかし、そう告げられたネズミは激昂し、紫苑に掴みかかった。首を絞められながら、紫苑は「ああここで死ぬのか。きみの手で死を迎えるのか」と悟った。
怒れるネズミを止めたのは、ちょうどその場に居合わせたコンクだった。彼はネズミの、イヴのファンだと言っていた。この屋敷と、ネズミの用心棒のようなことをしていた。
紫苑は自分の存在意義を問いながら、この屋敷に住み着いた。いまだ、ネズミに本当の名を呼ばれることはない。



いつか、この茶番を終わりにしようと思う。すでにネズミの心は壊れてしまった。
きっかけが掴めないまま、時間だけが経過した。ネズミが「紫苑」と呼ぶ人形は増える一方だった。コンクは何も言わず、毎日ただ屋敷の警護をしていた。
紫苑は思い立ち、小さなランプを持ってネズミの部屋に向かった。廊下はしんと静まり返り、昏くて寒い。ガウンを着て、静かに足を進める。
(ネズミに会って、一体何を話そうと言うんだ……ぼくは)
ネズミの部屋のドアの隙間が開いていた。自分の部屋からも確認できたランプの灯りが、漏れている。彼の部屋のドアが開いていることはしょっちゅうだった。立て付けが悪く、自然と開いてしまうのだろうか?
話し声がする。またネズミが人形に話しかけているらしい。
紫苑は自分のランプの光を息で吹き消し、そうっとドアへ寄り添った。
中を覗いて、息を飲む。驚きの声が出てしまわないように、自分の口を手で覆った。


目の前に広がる光景は、異常だった。ただでさえ、たくさんの自分の人形が存在する奇妙な部屋なのに。
(きみはぼくよりも、その人形がいいんだね)
紫苑の中で何かが壊れたようだった。
ネズミは人形相手に、情交の真似事をしていた。
おかしい。可笑しくて可笑しくてたまらない。



(そうだ。ぼくが人形のふりをしたら、ネズミどうするかな。怒って鉈を持ってくるかな、首を絞めるかな)
紫苑は悪戯を思いついた子どものように、ふふっと笑った。
なんて愉快だろう。



明くる日、紫苑はネズミが部屋にいないことを見計らって忍び込んだ。何度見ても、自分の顔がたくさんある光景に違和感を拭いきれない。
紫苑は人形と同じように、服を脱いだ。一糸まとわぬ姿になると、肌が寒さに粟立った。服を隠して、いよいよロッキングチェアに身を預ける。
(さよならネズミ)
激昂したネズミに殺されるだろうと予想を立てていた。
しばらくして、ネズミが部屋に入ってきた時、紫苑は精一杯人形のふりを始めた。
「紫苑、今日は犬洗いの仕事に行かないのか?」
また返答のあるはずも無い質問をしている。
ネズミは紫苑を屈みこむように覗き、少しだけ硬直したように見えた。

(さあ、どうするネズミ)
柔らかく微笑んだまま、ネズミの反応を窺う。
すると、ネズミは何も言わず紫苑の髪を撫でた。飽きもせずに何度も何度も、手先で弄んでいる。
思いもよらない行動に、紫苑は内心動揺した。
そうして、今度は唇にネズミのそれが重ねられた。大胆にも舌を差し込まれる。久しぶり過ぎるネズミの体温に、紫苑は自分の体が喜んでいるのを感じた。
ネズミは気づいているはずだ。自分が人形じゃないと。自分は人形と違って、粘膜も体温もあるのだから。それとも、それすら心が壊れたネズミには分からないのだろうか。

戸惑っていると、ネズミの行為はだんだんエスカレートして行った。
(嘘だ、こんなの嘘だ。違う、違う、違う、ぼくはこんなこと、望んでいた訳じゃない!)
脳内で否定しつつも、紫苑が人形の役割を止めることは無かった。
そうやって、先日の人形と同じような行為を最後までされた。涙は出なかった。どこもかしこも痛かった。


ぼくが分からないのか、ネズミ。
ぼくを人形だと思ったのか、ネズミ。
ぼくが何も感じないと思ったのか、ネズミ。


ネズミが壊してくれないのなら、ぼくが壊そう。
そうだ、あの人形たちを全部壊してしまおう。木っ端微塵になった人形を見て、ネズミはどう思うかな。自殺してしまうんじゃないかな。
全部何もかも壊したら、屋敷に火を点けよう。きっとネズミはぼくが死んだとしても、気づかない。

「あいしてるよ ネズミ」
一緒に……共に歩んで、生きていたかった。



翌日、街の外れにあった人形の館が全焼した。
その火事は地元の新聞記事の片隅に、小さくひっそりと報じられた。しかし、ついぞ遺体は一つも発見されなかった。



コンクが、ネズミの警護をしていた訳ではなく、紫苑の警護をしていたことに気づいたのはずっとずっと、後のことだった。



END





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