聴覚
「いぅー、さ」

ろくに舌の回っていない声が聞こえ、鬼柳は顔を上げて視線をやった。
そこにはほっとしたような顔でナナシが立っていて、ぱぱっと手を動かした。手話だ。その動きは速い。鬼柳の動体視力はその動きを追う事はできたが、手話を覚えきれていない鬼柳自身がその意味をはっきりと読み取る事はできなかった。

「もう少し、ゆっくりやってくれ」

手話を交えながらそう言うと、彼女はぱっちりと瞬いて『ごめんなさい』と手を動かした。そして先程と同じように、しかし今度はゆっくりと手を動かした。

『今、大丈夫ですか?』
「…あぁ」

緩く微笑みながら頷く。ナナシはにっこりと微笑み返し、鬼柳に抱きついた。

「っと、どうしたんだよ」
「んーっ」

鬼柳の声が聞こえていないナナシは彼の肩口にぐりぐりと額を押し付けてくる。鬼柳がぽんぽんとその頭を撫でると、ぱっと顔を上げたナナシはにこにこと機嫌よさそうな笑顔を見せた。
彼女の耳は本来の機能を持っていない。よって鬼柳がどんなに声をかけようが、ナナシがそれを判別する事はない。
もう一度、今度はナナシと目を合わせて「どうした」と訊けば、ナナシは少々名残惜しそうに鬼柳から離れ、ゆっくりと両手を動かした。

『鬼柳さん、次はいつお休みですか?』
「休み…」

記憶を辿る。ここのところ、仕事の量は少なくなってきている。取ろうと思えば明日にでも丸一日の休暇は取れそうだった。
とはいえ、それで期待させて急な仕事でも舞い込んだら話にならない。しばらく考え、両手を動かす。

『一週間、の内、多分』
『じゃあわたし、シティに行きたいです』
『構わない、だが、用事、あるのか』

手話と共に首を傾げる。耳の聞こえないナナシのためにと覚え始めた手話はまだまだ拙く、思っている事を伝える事すらままならない事もある。
しかし今は伝わっているようで、ナナシははにかみながらふるりと首を振って両手を動かした。

『鬼柳さんと一緒におでかけしたいんです。駄目ですか』

自分の口角が持ち上がるのを感じた。出会ってからしばらくは「迷惑がかかるから」と何の頼み事もしなかったナナシが、こうしてわがままとも頼み事とも言えないような「お願い」をしてくるようになったのは、いつ頃からだったか。

「駄目なわけ、ねぇだろ」

にっと笑みを浮かべてやると、ナナシは頬を紅潮させて嬉しそうに笑った。

「休みがとれたら連絡するから待っていてくれるか」

いつものように拙い手話を交えてそう伝えた―――つもりだった。
ところがどっこい、ナナシはきょとんと両目を丸めてまじまじと鬼柳を見てくるではないか。これは、と鬼柳は頬が引きつるのを感じた。ぱちぱちとナナシが大きな目を瞬く。

「………」
「………」

お互いに黙り込む。気まずくはないが間の抜けた沈黙。
鬼柳は苦笑してPDAを手にした。
彼女と会話をするには、まだまだ練習と勉強が必要なようだ。



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