触覚
しゅっ、と音にならない音がした。手指を走らせたそのラインに沿って、右手首に紅が引かれる。
掌に収まるほどの小さなカッターナイフの刃を押し出す。かちり。紅く汚れた先端と、汚れていない先端以外。
右手首に押し当てて、しゅ、また走らせる。引かれる赤。痛くない。
右手首には広範囲に赤が引かれている。手首と肘の、ちょうど中間辺りまで。よって血もだらだらと流れたり固まったりしている。それどころか、腕が腫れている。手首から先は、青白くなっている。痛くない。
刃先の方向を変え、掌を広げて天井に向けた。ずぷり、カッターの刃を埋める。痛くない。ぎぢぎぢぎぢ、ずらしていく。痛くない。
ずるりと掌からカッターを抜いた時、腕を掴まれ、カッターナイフを取り上げられた。かちちち、音がする。きっと刃がしまわれたのだ。
ぼんやりしながら顔を上げると、ただでさえ鋭い目付きでこちらを睨んでくる凌牙と視線がかち合った。

「テメェ、何してんだ」
「リスカ」
「んな事はわかる。俺が訊いてんのは何故だって事だ」

そんなに鋭い声で言われても、と思う。だって凌牙は理由を知っている。だからわたしは答えない。凌牙が眉間の皺を深くする。
チッと舌打ちした凌牙が踵を返す。そして救急箱を手に戻ってきて、わたしの腕を取って、また顔を顰める。

「いつからやってた」
「10分ぐらい前」

答えれば、また舌打ちをされた。けれど今度は何も言われない。何だろう。
凌牙はティッシュ箱から何枚かのティッシュを引っ張り出し、救急箱から出した消毒液を染み込ませると丁寧にわたしの腕を、掌を、拭い始めた。痛くない。
ガーゼを貼ったり包帯を巻いたりと、凌牙は手当てを続けていく。痛くない。痛くない。
決して手際いいとは言えない手付きである事は、医者から何度も同じような事をされているわたしにはよくわかった。
肘から上と指以外が真っ白く覆われた腕を眺め、その包帯の巻き方に順序も何もあったものではないのを確認して両目を細めた。

「…へたくそ」
「うるせぇ、応急処置だ。病院行くまでに倒れられたらたまったもんじゃねぇだろ」

そう言った凌牙に手を引かれ、立たされ、有無を言わさぬ歩調でわたしは彼のバイクに導かれ、かかりつけの病院に連れ込まれた。
服と床は、血で赤黒く汚れたままだった。


凌牙の手当てのお陰で輸血の必要性はなかった。増血剤を少し寄越されたぐらいだった。長時間病院に拘束されるのは嫌いだからよかった。
病院へ行く時と同じように凌牙に家へと運ばれたわたしは、凌牙のそれよりずっと丁寧にされた手当ての跡を見ながら口を開いた。

「凌牙」
「何だ」
「痛くない」

凌牙が押し黙った。いつもの事だった。
包帯越しに、その下にあるガーゼ越しに、傷口に触れた。痛くない。

「痛いのは生きてる証拠って、言ってる人がいたけど。わたし、痛くない」
「………」

この告白をするのは何も初めてではない。特に凌牙には何度も何度も聞かせている。凌牙は時々うんざりしたような顔をするけど、何も言わないでずっと聞き続ける。
この後の疑問だって、いつもと同じで、きっと凌牙はいつもと同じ事を、言う。

「ねぇ、凌牙。痛くないけど、わたし、いきてるのかな」

ぐぐぐ、と右手首に置いた手に力を込める。傷を圧迫する。痛くない。
凌牙がぐいっとわたしの腕を引いた。必然的にわたしの両腕が離れる。凌牙は解けない程度にわたしの腕を握ったまま。痛くない。

「…テメェは」

あれ。凌牙がいつもと違う。
いつもは不愉快そうに眉を顰めて「当たり前だろ」とか「くだらねぇ」とか言うくせに、今日は酷く悲しそうにわたしを見下ろしてくる。

「死にてぇのか」

訊いたのはこっちなのに、どうして質問で返すのか。ちょっとわからない。
わからないけど、質問されたから、とりあえず答える事にした。

「わかんない」
「…あ?」
「わかんないよ。だって、わたし、自分がいきてるのかどうかも知らない。だからしぬとか、しなないとか、そういうのもわかんない」

凌牙はやっぱり悲しそうにわたしを見ていた。わたしは混乱している。
いつだったか、誰だったかに聞いた話で、夢を見ている時は感覚がないのだと言われた事がある。感覚がある夢もあるらしいが。
だとしたら、わたしはずっと夢の中にいるようなものだ。

「わたし…暑くないし、寒くないし、痛くないし、気持ちよくないし、気分悪くないし、触っても触られてもわかんないし、歩いてるのかとかもわかんない。…ねぇ、凌牙、わたし、いきてるの? しんでるの? 教えてよ、凌牙」

あれ。おかしい、目の前が滲んできた。凌牙の顔が見えない。そして鼻が詰まってきたようで呼吸しにくくなった。啜ってみる、ずず、音がする。やっぱり詰まっていたらしい。つまり、わたしは今、泣いている、ようだった。
凌牙の顔が見えない。青紫の髪と目、というか、その位置だけがわかる。
りょうが、りょうが。腕を伸ばして、しがみつく。すんすん、子犬みたいに鼻を鳴らして、必死で凌牙にしがみつく。
凌牙にしがみついているはずの自分の腕の感触も、凌牙がわたしを抱き返してくれているのかどうかも、わたしには、わからない。

「お前は、生きてる」

少しして、凌牙がわたしの耳元でそう言った。脳髄に直接吹き込むような、そんな声だった。
わたしはその時の凌牙の顔が見たくて、見たくて、身体を離そうとしたけど、それはできなかった。凌牙はわたしを抱きしめてくれているようだった。そういえばさっきから少しだけ呼吸しづらい、結構きつく抱きしめられているのだろうか。

「俺が生きてる間は、俺が証明してやる。お前はちゃんと、生きてる」
「わたし、いきてるの」
「あぁ」

だから、と言った凌牙は、一瞬言葉を切った。また少しだけ、呼吸がしにくくなった。抱きしめる力が、強く、なった、のだろうか。
凌牙が言葉を切るなんて珍しすぎて、わたしは、横目で凌牙を見ようとした。顔は見えなかった。凌牙は不自然に俯いていた。

「だから…自分の身体、傷つけんなよ…」

凌牙の声が震えていた。何だかぎゅっとした声だった。あんまりポジティブな声音ではなかった。とりあえずそんな声。
やり方が合っていたのかはわからないけど、わたしは凌牙に縋る自分の腕に力を込めた。きっと、ちゃんと込められていた。
呼吸が、しづらかった。



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