触覚3
※「触覚」の続きです。






最近凌牙が来ない。これは少し前にもあった事だ。一年前の全国大会決勝直前からつい最近まで、凌牙の精神が最もぐらついていただろう時期の事だ。
何故だか知らないが凌牙は殊にわたしの前で弱味を見せる事を酷く嫌っていたから、多分、今の凌牙は精神的にとても弱っているのだろう。
そういう時のわたしはといえば、ぼんやりと部屋の片隅で過ごすだけだ。朝と昼と晩にご飯を食べて、一時間に一回は水分を取って、朝は歯を磨いて着替えをして、夜はお風呂に入って、あとは窓の外を眺めたり右手首を擦ったり、眠ったり、そんなところだ。とても無為に過ごしている。
時々、本当に時々、そろそろ凌牙や璃緒が来ないだろうか、と部屋の扉を眺める事もあるものの、そんな期待は抱くだけ無駄だと言わんばかりに扉は静かに鎮座しているものだから、それもやめた。
以前なら腕を切っていたが、それはもうしていなかった。凌牙がやめろと言ったから。自分の生死も判然としないわたしが生きている事を証明してくれると、言ってくれたから。それにまぁ、右腕にざくざくと幾筋も残った傷跡を見て顔を顰める凌牙を見るのには、ああ言われる前から多少心苦しいものを感じていたから。
…長々とわざとらしく思考を回してみても、さして時間は経っていない。10分経ったかどうかというところだ。そしてやはり凌牙と璃緒は来ない。わたしは窓の外を眺める。
はぁ、と溜息を吐く音に混じって、聞き慣れない音がした。部屋の中で、だ。扉が開く時のそれとは全く違う音だ。緩慢に首を動かして音源を見やると、割と見慣れた髪型を全く見慣れない身体にくっつけた何かがブラックホールのような何かからしゅるしゅると出てきていた。
白昼堂々と不法侵入―――と言っていいのかはわからないが―――を果たしておきながら、「それ」は何も言わずに深海色の目でじっとわたしを見つめた。仮面のような顔、と思しき部分には口がないからもしかしたら話せないのかもしれなかった。
それよりもわたしは静かに向けられる深海色に見入っていた。わたしは「これ」を知っている。いつも向けられる色だったのだから、「これ」を見間違えるわけがない。見間違えてはいけない。
「これ」は、わたしがこの世で執着を抱く数少ない―――あるいは唯一の―――人間が持っている色、だったはずだ。

「…凌牙?」
「………」

「それ」はぴくりと肩を震わせ、ゆっくりと瞬いた。否定か肯定かいまいちわかりにくい反応だったが、恐らく肯定、だろう。そうであってほしい。
わたしはずりずりと音を立てて「それ」に近付き、手が届きそうな距離まで寄った所で緩慢に立ち上がった。「それ」はさっきの微細な反応がわたしの見間違いだったのではないかと思わせるほど静かにそこにいて、それでもわたしを、わたしの行動を、深海色で追っていた。
抵抗、されるだろうか。振り払われるだろうか。そうされたらどうしようか。などといろいろ考えながら、手を伸ばす。「それ」の頬に片手で触れる。抵抗されない。

「…何故」
「………」
「俺を、凌牙だと、思ったんだ」

わたしの手を自分の手で掴み、「それ」は戸惑ったような声を零した。頭に直接響くような、くぐもった声音だった。それでもわたしのよく知った声だった。
相変わらず、明確な否定も明確な肯定もない。もしわたしの思っているとおりのヒトだとしたら、随分と「らしくない」行動だ。

「…わたしは凌牙の目が好き。深い海の色。…だから、凌牙じゃないかって、思っただけ」
「そうか。…なら、それはもう忘れろ」
「…忘れろって事は、やっぱり凌牙なんだね」

確信を持って問う。視界が微かに狭まった。自分でも認識しないうちに目を細めていたらしい。
わたしの中では「それ」が凌牙だという事は事実だったはずなのに、「それ」は「違う」と鋭い声で言った。わたしの手を強く握ったのだろう、被せた手の指先をわたしの手に食い込ませ、震わせながら、わたしの大好きな深海色でわたしをきつく睨んだ。

「今の俺は…ナッシュだ」
「ナッシュ」
「そうだ。お前達人間を滅ぼす…バリアンの、ナッシュだ」
「…そう」

聞き慣れた声で聞かされたのは聞き慣れない名前だった。ゆっくりと頷く。納得したわけではないが、凌牙の声で絞り出すような音を聞いて何も思わないでいられるほど、わたしは神代凌牙という存在に対して淡白には接してこなかった。
ごぎん、と「ナッシュ」の手の内で骨の折れるような音を聞きながら、わたしは首を傾げた。折れたのは十中八九わたしの手だろうが、痛くないのだから気にする必要はない。

「じゃあ、ナッシュ。ちょっとだけ質問を変えるよ。以前は神代凌牙だったんだよね?」
「…あぁ」
「でも、その神代凌牙がナッシュとして生きるという事は、神代凌牙はもういないって事なんだね?」
「…お前、変なところで順応性高いな。普通はそこまで頭回らねぇだろ」

「ナッシュ」が呆れ返った様子で少しだけ肩を落とし、目尻を和らげた。知らない貌に凌牙の顔がダブって見えた。あぁ、やっぱり、「ナッシュ」は「神代凌牙」だ。ナッシュとして生きようが神代凌牙として生きようが、わたしの好きな、かれのままだ。

「否定しないのは肯定って取っていいのかな」
「好きにしろ」
「肯定だね」

やり取りの間に解放された手を見る。人差し指と親指の間、それから小指の下が変な風に歪み、腫れていた。あぁ、やはり、折れているらしい。まぁでも、病院に行く必要もないから放っておこう。
手から視線を剥がしてもう一度ナッシュを見上げ、首を傾げる。少し斜めに映るナッシュの貌は酷く無機質なものだが、その中で目立つ深海色を眺めていると落ち着いていられる。

「ナッシュはどうしてここに来たの? 凌牙じゃなくなったのならわたしを気にかける必要はないと思うんだけど」
「…本当は嫌われに来たんだぜ。この姿を見せて、神代凌牙がもういねぇと言えば…お前は俺を憎むと、思ったから」
「…つまり人間を捨てたかったんだ? うん、じゃあもっと都合がいいな」
「は?」
「ちょっと待ってて」

無事な方の手をナッシュに向けてから部屋を出る。キッチンに向かい、毎日毎日丁寧に研いで絶妙な切れ味を保った包丁を取り出す。使う日なんて来ない方がよかったのになぁ。
包丁を手に部屋に戻れば、ナッシュはぎょっとしたように瞳孔を小さくしてわたしの手元を見た。そりゃあ驚くだろう。わたしは凌牙がわたしの生を証明してくれると言った日から一度も自傷をしていない。凌牙はそれを見てわたしが自傷をやめたものだと思っていたし、わたしもやめたつもりでいたのだから。
上手くいっているかどうかは別にしてにっこりと笑い、照明を受けて鈍く光る切っ先をナッシュに見せる。

「わたしをわたしから守ってくれた神代凌牙はもういない。わたしの存在を証明してくれた神代凌牙はもういない。今わたしの目の前にいるのはバリアンのナッシュ。人間を滅ぼすために存在する、バリアンの、ナッシュ」
「…お前、何を」
「ナッシュ。ナッシュの負担を少しだけ軽くしてあげる」
「…! 待て!!」

やっと意図に気付いたらしいナッシュが手を上げるのが見えたから、わたしは自分の首に切っ先を押し当てた。押し当てた、というのはわたしが勝手にそう思っているだけで、硬直したナッシュを見るにもしかしたら「押し当てる」どころではないレベルで食い込んでいるのかもしれなかったが、まぁ、その辺りもどうでもいい。どうせ痛みを、いや、手にした包丁の感触さえも、感じ取る事のできない身体なのだし。

「わたしの存在を証明してくれる人はもういない。自分でいきてる事がわからないわたしは、この先どうしたって自分の存在を信じる事ができない」
「っ…いいから包丁下ろせ!!」
「他の人じゃ駄目なんだ。璃緒でも駄目。凌牙じゃないと、駄目だったんだよ。でもその凌牙はもういない。わたしの存在を証明できるものは、もう、どこにもない。ないと、思ってた。でもね、ひとつだけ、あるんだよ。わたしの存在を証明できるもの。証明できる事」
「聞け! 包丁を下ろせ!!」
「人間を捨てた神代凌牙の心に、元から人間じゃないナッシュの心に、『人間』を残してあげるよ。さようなら神代凌牙!! ざまぁみろバリアンのナッシュ!!」

今までにない大声を上げ、わたしは包丁を持つ手を押し込んだ。ぞぶりと音がして、呼吸を示す腹部から胸部の動きが一気に小さくなった。
思ったより血が出ない。傷ついたのは気管だけらしい。頚骨に当たったらしくそれ以上先へ進まない刃を横にずらす。ナッシュがわたしの名前を叫ぶ声と、ばつん、という音が聞こえた。同時に視界が赤く染まり、あぁ頚動脈が切れたのだと察する。そして不意に視界が揺らぎ、ナッシュの貌が遠くなり―――倒れるのか、と思うより早くその動きが止まった。どうやらナッシュに抱き抱えられたらしい。
わたしの血に染まりながら何か叫ぶナッシュの瞳には、醜悪で狂的な笑顔を浮かべるわたしの顔が映っていた。
苦痛も前触れもなく急速にブラックアウトする視界の中、わたしは強く気高いようで本当は脆弱な心を持つ「彼」の事だけを考えた。
考えて考えて考えて考えて考えて考えて―――消えた。





(夢主は「神代凌牙」の意志を尊重しつつ「ナッシュ」への私怨を消化して彼の心の中に残りたかったのです)
(そして彼は「神代凌牙」としての未練の一つである夢主を切り捨てようとしたのですができなかったのです)
(「ナッシュ」の記憶を取り戻したばかりの彼は精神的に非常にぐらついていましたし許されるかなーとか)



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