花のみぞ知る
単独任務でよかった。本当によかった。これは命がいくつあっても足りない。未熟だが研磨の余地を大いに約束された若い剣士達を散らしたくはない。単純な、しかし音を置き去りにせんばかりに疾い横薙ぎを日輪刀で受け止め、踏ん張らずにそのまま吹き飛ぶ。近くの樹を蹴って勢いを殺し、切っ先も触れないまま胸元にざっくりと刻まれた傷を呼吸で止血していく。あの呼吸には力場があるらしい。それそのものが力を持ち、私を刻む「場」が。だから私は足を止めては攻撃を受けられない。物理的な斬撃と力場の斬撃に対応していられるほどの余裕はない。収穫、ひとつ。
少し前の鎹鴉の報告を思い浮かべる。上弦の参と戦い、死亡。上弦の陸、撃破。やや遠くに見える三対ある眸の中段を思い返す。「上弦」「壱」。収穫、ふたつ。
この上弦を相手にして、私に彼らと同じことができるか。自分以外の一人の被害も出さずに押し留められるか。手と目を失いながらでも頚を獲れるか。否。否だ。諦めからは程遠く、しかし純然たる力量の差がそこにある。一体どれほどの時間を、どれほど密度の高い修練に充ててきたのか。称賛すらおこがましいほどに彼は強い。しかも全力など欠片も出していない。収穫、みっつ。
それでも押し留めなければいけない。何しろ一里も下らないところに小さな街がある。このまま通してしまえば、私は無辜の人々を死なせてしまう。できる、できない、そんなことを考えている暇はない。鬼を、人を、私は鬼を狩らねばならないし、人を庇護しなければならない。それは私が定めた、私の意義だ。
だが、これは災厄だ。自然の猛威よりもたちが悪い。自らの意思で人を狩る。私がまだ生きているのは、本当なら刀を抜くまでもなく私の息の根を止められるはずの、ひとのかたちをしたあの災厄が遊んでいるからだ。何とも傲慢だが詰れない。悔しいと思う隙もない。地を這う虫には猛禽の強さを羨む権利すらない。
そう。彼にとっては私なぞ地を這う虫だ。それより弱いかもしれない。気まぐれに刀を抜いてなどいるけれども、あの膂力にあの技量、例え彼が無手だったとしても私一人では敵うまい。最強たる岩柱を含め、柱が束になってようやく渡り合えるだろう。強さの次元が違う。それがどうしてこんなにも、子供が玩具で戯れるような一方的な有り様とはいえ、こんなにも長く、生かされている?
疑問に埋没しそうになって、自分の状態の把握に努めた。五体満足だ。刻まれた傷の量こそ夥しいが、そのどれもが致命になり得ない。しかし呼吸で出血量をある程度抑えられるとはいえ塞がってもいないから、着実に動きが鈍っている。自分の反応速度が落ちているのを感じる。翻って彼は、無尽蔵な鬼の体力を差し引いてもまだまだ余裕がありそうだ。
戦うのか。夜明けまで。日没から数時間、他の鬼を追っていた。それを屠り、今は日付が変わる頃か。夜明けまでの更に数時間を、私は稼げるのか。考えても仕方ない。やらなければならない。それが今の私の責務だ。
血で滑りそうになった刀を握り直した直後、ぶわり、六の眸で視界が埋め尽くされた。何も、何も見えなかった。この剣士の動きが、私にはもう、少しも見えない。自覚した疲労は私の身体を隈無く駆け回り、力を奪い、刀を地面に落とさせた。ふつりと糸が切れたように膝が砕けたが、それは眼前の彼が支えた。支えた?

「…折れていないな」

片腕が軽々と私を支え、すべての眸が深く私を覗き込む。思いの外、静かな声だった。穏やかで、耳に心地よく響きすらした。そうして紡がれた言葉を、少しだけ考える。
折れていない。何がだ。刀。折れていない。心。折れそうだが繋がっている。骨。あれほどの攻撃と衝撃を受けておきながら一本も折れていない。弔問に訪れたとき、炎の刃紋を映す赤い日輪刀は鍔に近い場所で折れていた。左目は丁寧に処理されていたが、潰されていたのは明白だった。見舞いに行ったとき、不適な笑みこそ崩れなかったが、豪奢な眼帯の下にある左目と袂に隠れた左手は失われていた。彼らでさえ、少なくない傷を負ったのだ。実力では炎柱についぞ及ばず、指揮能力では元音柱の比較にもならない私が、彼らと交戦した上弦より格上であるこの剣士を相手にこんな状態でいられるわけがなかったのに。徹頭徹尾、戦えと叫ぶ心を置き去りにした身体が戦えなくなった今でさえ、私は遊ばれている。
それでも、すこしの怒りもなかった。

「…うつくしいものを、みました」

心からの敬服を込めて告げ、心からの敵意を込めてわらう。
この剣士はうつくしいのだ。ほんとうに。見た目の話ではなくて、いや、異形の六つ目であろうと涼やかで端整な顔立ちなのはたいへんよくわかるが、そうではなくて、主に剣技が。それから、たぶん彼がそのこころの裡に留めている醜悪さまで。
ぴくりと全ての目尻が動いた。それは遭遇してから今の今までで、彼が初めて見せた表情らしい表情だった。芽吹きそうな戸惑いを意識的に頭の隅へ追いやって、紫の着物の襟を掴む。手はおろか刃の先すら届かなかった至高に、触れている。頭の芯に焼けつくような歓喜がある。

「でも、しんでくださいな、上弦の壱」

今日この日でなくても。いつか、いつの日か、誰かがこの鬼の頚を落としてくれるのを望んでやまない。私はきっともう、殺されるから。収穫があったのに、鎹鴉では全てを伝えきれはしないのに。せめてこの剣士の報告を上げてから死にたかった。力を失った手が艶やかな淡紫に血の痕を残して離れ、意識が落ちていく。
ああ、でも。欲を言えば、私がこの手で頚を落としたかった。そうしたら、私はこのうつくしく醜い鬼を、その最期まで抱いて見つめていられるのに。


++++++


―――うつくしいものを、みました
―――でも、しんでくださいな、上弦の壱

微笑みながらささやいて、刀から遅れること数分、女はとても幸福そうに、しかし無念をありありと浮かべて意識を手放した。呼吸が本人の制御を離れ、開いた傷から血が流れ始める。深い傷は負わせていないし、この女自身がそれなりに回避したが、如何せん数が多い。必然、出血量も多い。
鬼殺隊の剣士など、まして女など、一刀の下に斬ってしまえばよかったのに、黒死牟はそうしなかった。ただの気まぐれで遊んだ。
女は、まあ、そこそこ強かった。多分、柱かそれに近い位置にはあるのだろう。身のこなしは軽やかで、黒死牟の斬撃に的確に反応し、力場を見抜くや否や距離をとっての防戦を選んだ。息が上がっても止血できる程度に呼吸は規則正しく、かつそれを保ちながら刀を繰った。
大方、女は近くの街を慮ったのだろう。取るに足らないあの街、例えば黒死牟がそこに向かうそぶりを見せたら、女はどうしただろう。ついぞ乱れなかった心を思う。狂ったように斬りかかるか、止めようと追い縋るか、集落の者を逃そうと走ったか。明確な敵意とそれを上回る憧憬と羨望、そのすべてを切り捨てたように跳ねた身体を思い返す。人を害したら、女はあれらをかなぐり捨てて、ただこの頚を狙いに来ただろうか。刃もろくに合わせていない女のことだ。考えても詮無い。
片腕に女を抱えたまま刀を納め、少し考えてから女の日輪刀を拾い上げる。ごく淡い金の、月光に似た色をしている。刃こぼれはなく、しかし砥ぎ減りしていて、血で濡れた柄には握り癖がついている。大切にされ、しかし迷いなく敵を斬り続けた刀だ。なるほど、あの実力をつけただけある。並々ならぬ修練を積み、ひたすらに戦場を駆け、女は刀のための身体を手に入れ、刀は女の手に馴染んでいったのだ。
その刀身をあるべき場所に納めるには少しだけ手間取った。女の背を肘で支えるようにしながら、そこから繋がる手で鞘を固定し、切っ先から慎重に。きん、と風鈴のような音がして、刀身が消えた。黒死牟はまた少し考えて、それを女の帯から引き抜き、自分の腰に佩いた。
女を両腕で横抱きに抱え直し、三対の目のうち額と頬の二対を擬態で隠して街に向かう。女が守ろうとした街だ。夜更けだが医者を訪ねると、寝ぼけ眼で出た医者は女の様子を見るなり慌てて部屋を空け、治療を始めた。
女の状態は芳しくなかったらしい。やはり流れた血が多かったのだとか。早く連れてきてくれてよかったと医者は言った。次いで何があったのか問われ、黒死牟は知らぬ存ぜぬを通した。強盗にでも遭ったのだろう、自分が見つけたときにはこの状態だった、恐らく命からがら逃げたのだ、間に合ってよかった。いけしゃあしゃあと、湯水のように流れる虚言を、人の良い医者は呆気なく信じた。女が心配だが勤めがあるので明日の日没後にまた来る、と虚実をない交ぜに告げて、その日は医者の家を辞した。
翌日、女は目を覚まさなかった。
翌々日も、目を覚まさなかった。
三日経って、ようやく目覚めた。
月の満ちた、明るい夜だった。医者はまだ女が目覚めていないのだと残念そうに首を振って、それでも黒死牟を女の部屋に通した。
馴染みのない椅子の上で、何するでもなく、何を言うでもなく、女の寝顔を眺めるのはつまらなかった。放っておけば良いものを、黒死牟はここでもそうしなかった。二度、この女を生かす選択をした。ただの気まぐれだ。
その気まぐれが、月明かりの下で不意にばちりと目を覚ましたのだ。

「……起きたか…」
「―――……あなたは」

女は身体を起こした。数日眠っていた怪我人にしては機敏で、しかし明らかにあのときの動きには及ばない。暫し黙って、女は微笑んだ。

「…二度も生かされるとは思いませなんだ。貴方ならば私ごとき、すぐにも殺せましょうに」

その笑みをまんじりと見つめる。親愛からは縁遠く、嫌悪すらどこにもない。あの夜と同じ、明確な敵意とそれを上回る憧憬と羨望が、瞳の奥に煮えている。

「日輪刀は…貴方が持っているのかしら。それとも折った? お望みは何でしょう、首? 必要なさそうですが。それとも血肉かしら? いいえ、それならあの場で殺していますね」

問いを連ねる声は思ったよりも軽やかだった。すくなくとも意識を失う寸前の、あのとろりとした声ではない。
考えるように少しだけ首を傾けた黒死牟を見て何を思ったのか、女もまた黙った。耳鳴りがするほどの沈黙が流れ、それを再び破ったのもやはり女だった。

「眸は、どこへ置いてきたのです?」
「…………」

ひとみ。瞳。どこへも置いてきていない。ただこの医者の家を訪ねるのに、双つであるのが都合がよかった。女の前ではそれも意味がない。擬態を解いて慣れた視界を確保する。女が少女のようにあどけなく笑う。

「…間近に見てもよろしい?」
「好きにしろ…」

あのとろりとした声だった。だからといってどうしてそんな答えがまろび出たのかわからないまま、華やかな女の微笑みが近づいて、あの日襟の合わせ目を掴んだ白く堅い手が、あの日と同じように黒死牟の着物を掴んだ。
血の痕は残らなかった。


++++++


まさかのよもや、生きて目が覚めるとは思わなかった。炎柱をはじめ散った隊士達のいる黄泉の国に旅立つものと思っていたのに、窓を潜り抜ける煌々と美しい月光に揺り起こされ、あのうつくしい鬼が―――少し違うかんばせだったけれど―――傍にいたから驚いた。
問いを重ねても彼は何も答えなかった。どうして生かされたのかはわからないまま、得られた答えは眸の所在と、それを間近に見る許諾だけだった。私をとらえたうつくしい眸。血のような赤の中に、月のような金が浮いている。それを堪らなく独占したくなって、私は不自由な身体で距離を詰めたのだ。全身が衰えていてひどく痛む。狩るべき鬼に縋らなくては身体を支え続けられない。私を容易く縊れる手は少しも動かず、私を突き放すこともなければ支えることもない。かえってありがたい。彼の着物をよすがに身体を持ち上げ、彼の膝の上に乗り、ようやく私は姿勢を安定させてその眸を見た。
うつくしい眸。六つ、確かにある。そのすべてが静謐で、彼の傲慢さを玲瓏と彩っている。こんなにもうつくしいものを私は他に知らない。頚を落としたら、このうつくしさが永遠に、失われるのだ。それは惜しい。
彼が何も言わないのを良いことに、片手を伸ばす。彼の右首筋から頬にかけて浮いた痣、それを隠すように手を添えて、もっと、と顔を寄せる。視界がうつくしい三対でいっぱいになる。たりない。まだ。もっと。欲には際限がない。唇が触れそうなほど近づいて、人と同じ位置にある眸の「上弦」と「壱」を見つめる。

「上弦の壱」
「……黒死牟だ」
「こくしぼう」

何とも不穏な響きの名前だ。醜く傲慢で高潔な心、一切の容赦のない剣技、おぞましいほどに惹き付ける眸、死を思わせる名。彼はうつくしいものだけで、そのかたちを成している。
日照りに雨を乞うのに似ている。雷雨に晴天を祈るのに似ている。強く、うつくしく、醜く、傲慢で、静謐で、低い空に朱く燃える月のようなひと。私に人ならざる永い時間が残されていれば足掻けたのに。平隊士から柱までには一万歩あるかもしれないが、柱から彼までにはその数倍あるだろう。こんなにも一歩が重いのに、こんなにも、彼は遠い。
噛み付いたら。首か腹を斬って見せたら。この激情を吐露したら。藤の毒を盛ったら。今すぐ頚を狙ったら。どれも意味がない。私は彼に見てほしいわけではない。元々あった敵意は今も私の腑を焼き続けている。意味がない。

「…ほんとうに、うつくしいひと」

一頻り見つめると満足したので、私は滑り落ちるように彼から離れた。そのつもりだった。広く大きな手が、あの夜のように私を支えた。力の抜けた人体は重いのに、それをものともしない力強さがある。自分で収まりよく姿勢を正すことはせず、されるがままに支えられる。
黒死牟の眸が私を見ている。あの夜とやはり同じように、深く覗き込んでいる。違うのは少しだけ、全ての眸が細められていることか。私の骨の髄まで見つめるような、不思議な眸をしている。背を支える腕がぐっと力を込めて、今度は彼の方から、距離を詰められる。
互いの吐息が触れるほどの至近距離で、彼は何も言わない。私をただ見ている。居心地の悪さはない。私も彼を好きに見つめた。
ややあって、砥ぎに出された刀が持ち主の手に戻されるように大切に抱え上げられ、寝台に横たえられた。おまけに丁重に布団をかけられた。おや、と見上げた先で、額と頬の眸が姿を消していく。白い眼球に黒々としたまなこ。涼やかで端整なかんばせ。

「大人しく…していろ…」
「はあ、仰せのままに」

言われるまでもなくろくに動けないのは彼もよくわかっているだろうが、念を押されたので大人しく頷いて返す。高く結い上げられた髪がくるりと転回して部屋を出ていく。思えばあの、滑らかだが硬そうな髪も綺麗だ。
それから黒死牟に連れられてきた医者は、私が強盗に遭ったものと思っていた。ちらっと黒死牟を盗み見ると涼しい顔をしていたので、彼がそういうことにしたのだろう。話を合わせた。ええそうなんです、天涯孤独になった上、身ぐるみ剥がれそうに、彼が拾ってくださらなければどうなっていたことか。よくもまあいけしゃあしゃあと、と我ながら思ったが、天涯孤独と彼に拾われなければ死んでいたのは本当だ。
一頻りの問診の後、医者がついでに傷の具合を診ると言うので黒死牟は部屋を追い出された。不服そうに見えたのは気のせいだろう。
医者が言うには、私は丸三日、眠っていたらしい。勤めを終えた日没後には彼が毎日来たのだとも言った。彼はそういうことにしたらしい、と納得した。包帯と当て布の下にある傷はほぼ塞がっていて、回復が速いし化膿の心配もない、と医者は微笑み、しかしあと二日間は様子見だと続けながら、清潔な布と包帯で全ての傷を覆い直した。新しい寝間着まで用意してくれた。全てを終え、人の良い医者は私の肩を優しく擦って微笑み、私を横たえて出ていった。入れ替わりに黒死牟がまた入室した。直前、扉の隙間から、実に風雅な所作で医者に一礼しているのが見えた。擬態とはいえ礼儀正しい。
すとんと音もなく椅子に座った黒死牟を見上げる。少しすると彼のかんばせは再び異形に戻る。赤い眼球に金の虹彩、三対の眸。
沈黙が続いて、彼も私をじっと見下ろしているだけだったので、私は率直な疑問を口にした。

「ねえ、黒死牟。貴方、何故私を生かしたのです? …一度ならず二度も」

彼は胡乱げにすべての眸を細めた。


++++++


女は何故と問う。理由を求める。気まぐれだとか殺すに値しないとか、いくらでも告げられる言葉はある。黒死牟はしかし、どれも選ばずに女をただ見下ろす。女は重ねて追求せず、「答えたくないならそれで」と笑う。
奇妙な女だ。こうして臥せって尚、黒死牟への敵意を焦がしている。刀もなく、傷を負い、昏睡して衰えた身体だというのに。そのくせこの目を見たがる。うつくしい、と混じり気のない歓喜すらこぼす。黒死牟が触れても暴れず、むしろ大人しく身を委ねる。どれもこれも繕っているように見えないから、多分、それで黒死牟の興味が掻き立てられているのだ。

「ねえ、黒死牟」

ひそりと内緒話のようなささやかな声が、滑らかに耳の奥で踊る。少しだけ身を屈めてより近くに聞こうとしたのは声量が小さいせいだと、黒死牟はそう思うことにした。
うっそりと微笑んだ女が手を伸ばす。寝間着から覗く前腕に巻かれた包帯、月光で薄く青みを帯びたその白が、まだ血色の悪い女の肌をいくらか健康的に見せている。右の首筋から頬に浮かぶ痣に、その指先が触れる。冷えている。

「あと二日ほど、様子見が必要なようで」
「そうか…」

関係ない。この三日、足繁くこの家に通ったのはただの気まぐれだ。縊らないのも、主に報告しないのも、この女が取るに足らないからだ。女が意識を取り戻し、快方に向かっている今、黒死牟は全ての気まぐれをやめてもよかった。

「臥せるばかりではつまらないので、また来てくださいな」

だから、恋い慕うような微笑みを受けても何も答えなかった。女も確約をねだらなかった。
翌日、女は既に立って歩けるほどには回復していた。黒死牟が直接見たのではなく、医者がそう言っていた。つまり黒死牟は、また女の下を訪れた。女は黒死牟の前では変わらず寝台にいて、昼間たくさん動いたので、と上体を起こすに留めた。腕の包帯は取れ、袖から瘡蓋がいくつも覗いていた。

「治りかけは痒いですね。掻いてはいけないのはわかっていますが…耐え難く…」

そう言いながら掻く代わりに前腕を擦るのを、何とはなしにじっと見た。そんなに見つめられたら穴が空く、と笑うから、穿ってやろうか、と返すと、白々しく怯えられた。
存外、女は退屈していないようだった。黒死牟はほとんど相槌も打たず、女が勝手に緩やかな言葉を紡ぐのを、ただ聞いていることが多かった。女は昏睡していた時間を取り戻すようによく喋った。どこの桜餅が美味しいだとか、どこの細工屋に花で鈴を模した美しい簪があっただとか、どこの反物屋で華やかな着物を見ただとか、他愛ない話ばかりだった。
相変わらず黒死牟に向ける敵意は鮮烈で、しかし女は鬼殺隊の話もしなければ黒死牟に自分の日輪刀の在処を尋ねもしなかった。ふとした瞬間に焦がれるように頚を見るのがせいぜいだったから、黒死牟は全てを捨て置いた。
人は脆い。中には群を抜いて頑丈な者もいるが、この女はそうではない。骨格、体格、筋肉量、全てにおいて平均的で、鍛練だけであの強さを手に入れている。だが、どれほど鍛えたところで黒死牟には及ぶべくもない。他の上弦と渡り合うのも厳しいだろう。それがわからぬほど愚かではないのに、女は黒死牟に刀を向けた。今も敵意を向ける。よくわからない。こころが、とうに置き去りにしたはずの部分が、ざわざわと毛羽立っている。
よくわからないまま翌々日も医者の家を訪ね、女の様子を見に行った。女は黒死牟を見て、いたく嬉しそうに笑った。

「―――よかった。今日話せなかったら、心残りができるところでした」
「…私もだ」

瞬いて首を傾げた女の髪に指を伸ばす。最初に抱き止めたときには血で固まっていた。二度目は昏睡から目覚めたばかりで酷く荒れていた。今は滑らかに流れている。
すぐにも女を縊れる手を引っ込め、袂をまさぐる。ちりりとしたものが掌に触れる。それを掴んで手を引き抜き、女の寝間着の帯に挿す。女がぱちくりと瞬いて、視線は動かさぬまま帯を叩いて所在を確かめ、それを引き抜いた。
竜胆に似た花の釣り鐘の中に硝子玉をあしらって鈴に見立てた、簪。を、女はじっと見た。

「黒死牟。一応確認しますが、簪を贈る意味を理解していらっしゃる?」
「…腹立たしいが」

袖の内側で腕を組む。腹立たしいが、いい加減に認めざるを得ない。この女を生かした理由も、こうまで気にかけた理由も、女がただ一言漏らしただけの簪を贈った理由も。ただの気まぐれには、とうに納まらなくなっていた。
女は黙りこくって、花の鈴を揺らした。華奢な音が響いて、数秒か、数十秒か、いちいち呼吸や心拍の数を数えていないからわからないが、とにかく長い沈黙があった。
女の顔が上がり、困ったような笑顔が咲いて、ちりりと花の鈴が鳴る。女が生白い足を床に下ろして、黒死牟に両手を伸ばす。女の顔が近づき、黒死牟の耳に名を吹き込む。転がすように呼ぶと、女はこつりと額を合わせた。

「ありがとう。ごめんなさい。また敵になりましょう。いつか頚が落ちて、地獄での禊を終えるまで、待っています、あなた」

彼女が愛したこの目より、くちづけを寄越す彼女の方が、よほどうつくしいと思った。



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