流転
※スービエが貴族設定です。
我が兄ながらあれで良いものかと首を傾げてしまう。社交よりも肉体労働だし、暇があれば海に行くし、嫡子である自覚はあるのか。いとこに相談したらそれはそれは温かい目で微笑まれて話にならなかった。
「お前、母上に似てきたな」
小言をこぼした時、にやりと笑って返した兄の顔は忘れられそうにないと思ったし、途方もない時を経た今も色褪せずに覚えているから、当時の私はきっと相当腹に据えかねたのだろう。
怒濤のように昔の記憶が脳裏を流れる。すっかり異形と化した兄を前に、懐かしさや慕わしさは少しも感じられなかった。
「海の主の娘を、狙っているとか」
「吸収すれば、俺は更なる力を得られる、ワグナスを支えられる」
「それは何のための力ですか」
触手が蠢く。私に襲いかからないのは彼にまだ肉親の情が残っているからか、それとも彼にとって私が殺す価値もない存在だからか。前者はともかく後者だとしたら少し虚しい。どうやら私には彼への情がまだ残っているらしい。
くつりと笑う彼の表情は、遠い過去のそれとはかけ離れているように思えた。
「…復讐だ。俺達を追放したお前達への」
お前達。微か、ほんの微かに心臓部がちりりと痛むのを感じた。
過去、彼を含む七人の力を恐れた同胞達は彼らを騙して追放した。私がそれを知ったのは兄やいとこをそうして失ってからの話だったが、彼にしてみれば追放した連中と何も変わらないのだろう。
理由としては十分だが、それでも腑に落ちない部分はあった。
「それなら海の主を狙えばよろしいのに、彼女である理由は?」
「世間知らずの娘だ、狙いやすい」
「…追いかけっこはよっぽど楽しいと見えますね」
きっとこれ以上の答えは得られない。再会の挨拶すらなかった私達にはそれでいいのかもしれない。
「全く、貴方はいつになれば落ち着くのかしら」
ぱちりと鋭い目が見開かれる。私の記憶と同じ、私も同じものを持つ、紅玉の目。拍子抜けしたような表情があって、こちらは記憶とは随分異なる水色の髪が揺れる。
何かそんなにおかしな事を言っただろうかと首を傾げた直後、彼は声をあげて笑った。いつかの残響と共鳴する。
「お前、母上に似てきたな」
一頻り笑った後、彼はにやりと笑ってそう言った。それから手が伸びて、私の頭をぐりぐりと撫で回す。
「ちょっと、もう、やめてください。子供ではないのだから」
「ああ、こんな歳まで生きているとは思わなかった」
「私だって貴方がこんなに時を経て帰ってくるとは思いませんでした。いつまで経っても奔放なんだから」
「翻ってお前はいつまで経っても生真面目だな」
「誰のせいですか、もう」
手を払い除ける。怖い怖い、とわざとらしくけらけら笑った彼は距離をとる。のらくらと、勉強面の出来はあまりよくなかったくせに、私は彼に敵わない。彼にいいようにあしらわれ、けれどどうしようもなく彼を慕った幼い日の私は、今もどこかにいるようだ。
きっと、彼も同じく。笑って私をからかい、しかし他の誰よりも私を守ってくれた彼は、数多のいのちと記憶を吸収して尚、ここにいる。
ぽろりと涙がこぼれた。数百年か、もっとか、泣いた事はなかったのに。
「泣き虫」
「誰の、せいですか」
「…そう言われるとキツいな」
ぎこちなく片腕で抱き寄せられる、人のようで何となく質感の違う肌と下半身に直結する海産物の足と、そんな景色が広がる。とん、とん、と背中を叩かれる。子供ではないのだから、なんて、もはや言えたものではない。
今更だ。こんな感情を持つなら、もっと昔でなければいけなかった。もっと昔、彼がいとこをはじめとした仲間と共に異形になり始めた頃、私がそれに気付いた頃に言うべき感情だった。
心身が変わり果てて、けれども核は確かに昔の慕わしい彼のままで、そんな事実を目の前にして私はようやく遅すぎる恨みを自覚した。
「……黙っていましたよね」
「ああ」
「どうして、私を連れていってくださらなかったのですか」
「お前に血を流させるつもりはなかった。お前を守るのは俺の義務だった」
「どうして…」
すん、と鼻を鳴らす。呼吸を整える。その短い間があって、彼のひやりとした手に背を叩かれ続けて、余計に涙腺が緩む。
「そうやって、私には気遣わせてもくれないで、貴方は…私の知らない貴方に…」
ぐしぐしと目を擦る。涙は溢れて止まらず、彼は答えを探すように背をさすった。
「…それは置いておけ」
「何でですか」
「男には言いたくない事もあるもんだ」
「もう、いつもそうやってのらくらと」
両目を押さえて身を離す。わしわしと再び頭を撫でられる。今度は抵抗しない。泣いて、泣いて、時々彼の今の足がするりと滑る音が聞こえる。
一頻り泣いた後、数分ぶりに視界を確保する。ばつの悪そうな顔をした彼は、まだそこにいた。
「謝るつもりはねぇ」
「わかっています」
「だから許さなくていい」
「許しません」
「ああ、それでいい。どうせ、我らの生き方は今更変えられるものでもない」
「…ふふ」
今の今まで泣いていたのに、笑ってしまう。身内に、本当に惚れ込んだ人に甘いのは、昔から変わっていない。
「何だ、急に」
「…海の主の娘にも、それぐらい誠実でいれば…彼女の母上も、認めてくださるのではないかなぁ、と」
「は? …話は聞いておけよ、俺があいつを狙っているのは」
「吸収のため、ですよね。…本当にそれだけかしら、と思うので」
「…言うようになったなぁ?」
「これでも今の人々の基準では化石のように年を取っていますもの」
ふふ、ふふふふ。ふふり。二人して笑い合う。
ああ。再会の挨拶などなくて当然だ。こうして顔を合わせた今、私達は遥かな昔日に還っている。
けれども現実はそうもいかない。彼は人類の敵としてこの地に舞い戻った。私は彼についていけない。だから今は、今だけはと浸る。
お酒でも持ってきたらよかったわ、なんて、そんな他愛ない話ぐらい、今だけはさせてくださいね、兄上。