睨月
その夜、震えながら部屋に戻ったナナシは、「月が怖いのです」とリョウマに零した。

「月が怖い、とは…どういう事だ?」
「…笑わないで下さいましね」
「あぁ」

釘を刺すのを忘れない妃に、リョウマは至極真剣に頷いた。しゃんと背筋を伸ばしていながらも、夜着に包まれたその痩躯は小さく震えている。何であれ、その恐怖の理由を笑う事はありえない。
ナナシはどうにか気丈な体裁を繕いながら、しかしほんの少しばかり眉尻を下げて呟いた。

「…月が、私を睨むのです」
「月が睨む…?」
「正確には、そう見えただけです。…雲の隙間が、瞼のように月を囲っていて」
「ほう」
「それだけでなく、まるで暗夜の、こう、顔の上だけを隠すような面のような、雲の形が…えぇと、申し訳ありません、語彙が足りなくて。…その、ただの気のせいだとわかっているのですが、とにかく、恐ろしかったのです」

ナナシが月を恐れる理由にようやく合点がいった。彼女はそういう、リョウマには理解しがたい、しかし邪険にする気にはなれない感性を持ち合わせているのだ。今回も、それが邪魔をしただけなのだろう。
少しく考えてから、リョウマはナナシの両頬を包んだ。灯篭の淡い暖色の光の下でも、彼女が青ざめているのがよくわかる。

「ではナナシ。俺を見ろ」
「…リョウマ様?」

怪訝な表情で、ナナシはリョウマの手に触れた。細い指先は鉄のように冷たく、冷静な態度に反して縋るようにリョウマの手を掴んでいて、彼女の恐怖が根強いのを示している。もしかしたら、誰が見ても恐ろしかったのかもしれない。それも居合わせなかったリョウマにはわからない事だ。

「俺が怖いか?」
「リョウマ様が? …まさか」

リョウマは己の問いに迷いもなく否定を返したナナシに小さく笑みを見せた。彼女の指先に一気に血が通い、常の温かさをあぶるように取り戻していく。それを自分の手で感じながら、唯一自由な親指でナナシの頬を擦った。

「ならば俺を見ていればいい。俺はお前を怖がらせる事はしない。だから月ではなく俺を見ていろ」
「………」

しぱしぱと、小難しい話を聞いた子供のようにナナシは双眸を瞬かせた。それから噛み砕くように目を伏せがちにし、ややあって視線を上げるとリョウマの手に縋る力を緩やかに強めた。

「では、お願いがあります」
「何だ?」
「この恐怖を…塗り潰して下さいまし。…見ているだけでは到底足りませぬ、こうして触れ合うだけでも足りませぬ……もっと、先を」
「―――……」

縋る妻の頬をかっちり捉えたまま、リョウマは己の唇を彼女のそれに押し付けた。些か温度の低い柔らかさが震えている。
触れるだけに留めて顔を離すと、ナナシがそろりと首に腕を回しやった。リョウマも彼女をそっと抱き直して、改めてその唇に口づけた。
やわやわと唇を食んで口内に舌を押し入れると、彼女の舌が控えめに答えた。いつもなら絶対にしないその「誘い」は、きっと羞恥を上回る恐怖の表れなのだ。

「…ナナシ」

音もなく唇を離したリョウマは熱を孕んだ声で妻の名を呼んだ。「はい、リョウマ様」とナナシが従順に答える。

「…身体が辛くなったらすぐに言え」
「…御意に」

こんな時でも律儀な返答が彼女らしい。小さく笑って、リョウマはそろりと寝具に妃を横たえた。
障子越しに月明かりを見る事はできない。



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