くるくる回る
時の勇者に敗北して数時間もしないうち、彼は水の神殿から魔の気配が失せたのを感じた。予想はしていた事だった。あの魔物は水がなければ剥き出しの核だ。どうせロングフックで引きずり出されて切り刻まれたのだろう。何とも単純で、呆気ない死に様だ。何の感慨も沸かない。
ところで彼はこの部屋に居座る必要も、時の勇者と戦う必要も、もうない。目的は終えた事だし、さっさとこの神殿を出て―――それから、もう何の用もないこの世界を去るとしよう。ぱしゃ、と音を立てて歩き出す。
部屋を満たしていた自分の魔力は、それによって構築されていた水鏡の幻覚は、時の勇者に敗北した時点で綺麗さっぱり消え失せていた。影を操る事はできるが、水面に溶けて移動する事はできない。だからこの神殿を徒歩で抜けなければならない。欠けた魔力を回復するにもかなりの深さの水を要する。とにかく外に出なければ話は始まらない。らしくもなくごちゃごちゃと様々な事を考えながら、呼吸でもするように転移の術を扱う女を思い出したのは、恐らく今の自分が多少「不便」だと感じたからだろう。

「あれ?」
「―――」

狙ったのか、と言いたくなるタイミングだった。部屋の扉に手をかけた時、最早感知し慣れた魔力の波長が部屋に浸透し、それが消えると同時に聞き慣れた声が耳朶から滑り込んだ。振り返った先にはナナシが立っていた。

「間違えた? …そんなわけないか、君がいるんだし」
「………」
「あ、怪我してる。珍しい事もあるもんだね」

間違えた、とは恐らく部屋の事だろう。彼女が好きだと言った幻覚は消滅しているから、目的地とは違った部屋に来てしまったかと思ったのだろう。彼女の魔法の腕前でそんなミスがあるなど、まずもってありえないだろうが。
次いで彼の怪我を発見すると、ぱしゃぱしゃと足元が濡れるのも厭わず彼に駆け寄ったナナシはぺたぺたと黒衣越しに右手を這わせる。そして血の代わりのようにじわじわと影の滲み出る箇所を発見する度に、ほう、と暖かな光を伴った治癒魔法をかけていく。その途中、彼女は微かに眉根を寄せた。いつも笑顔でべらべらと話すナナシらしくもない表情だった。

「…治りが遅い……私が治癒術が得意じゃないのを差し引いてもおかしい。…何をした? 何をされたの?」
「…戦った」

彼はいつものように至極簡潔に答えた。最も大きな傷は聖剣で斬られたものだ。だが他の傷は邪竜を叩きのめせるハンマーで殴られたり、力の女神の加護を受けた炎の魔法で焼かれたり、他にも様々な要因でできたものだ。彼女がどの傷を指して質問をしたのかわからない以上、戦った、という答え以外に相応しいものがなかった。少なくとも、彼にはそう思えた。
ナナシは物言いたそうにじっとりと彼を見据え、しかし何も言わず溜息を吐いて再び治癒魔法をかけ始めた。傷の治りが遅いと先ほど自分で言ったばかりだというのに、不毛な事だ。

「…ナナシ」
「―――……っ、は?」

遅々と傷口だけが塞がっていく感触に身を任せながら名を呼ぶと、ナナシは途端に魔力を霧散させ、目を丸く見開いて彼を見上げた。彼から声をかけた事は今まで一度もないし、まして名前を呼んだ事もないから、驚いたのだろう。彼は構わず利き手を持ち上げ、傷口から中途半端に距離を置くナナシの手をゆっくりと掴んだ。

「もういい」
「…え?」
「これ以上は治らない」

この世界で実体を保つだけでも魔力を消耗する身だ。今こうして魔法による治癒を受けたとて、生存に必要なエネルギーとしてほとんどがその効果を発揮せず吸収されてしまう。そうでなければ、ナナシが自分でそう言ったように、いくら彼女が治癒の魔法を苦手としているからといってここまで治りが遅いなどという事は起きない。元来、彼女は彼を遥かに上回る魔法の技術と魔力を持っているのだから。
とにかく、いくら治癒魔法を受けても治らないのだから彼女に無駄な魔力を消費させる必要もない。今なお身体からじわじわと滲み続ける影を引きずるようにしてナナシの手を離し、隣をすり抜ける。
彼女と話すのは、恐らくこれが最後になろうか。彼がこの世界を去ってしまえば、彼女とは会えなくなろう。それでも別に構わなかった。元々彼女とは大した言葉を交わした事はないし、大した関係でもない、はずだから。
だから、半歩ほど離れた位置で「待った」と後ろから腕を掴まれた時はらしくもなく微かに驚いた。

「治らないのはわかった。じゃあその治らない身体でどこに行くの?」

じっと彼を見据えるナナシ。腕を掴む力は非力で、振り払うのは容易だ。だが、だからこそ、振り払う必要性を見出さなかった。
彼が微動だにせず真っ直ぐに見つめ返せば、ナナシはくっと眉根を寄せた。

「…君、もういなくなるつもりでしょ」
「………」
「許さないよ」

許可をもらう必要性も見当たらない。とは口に出さず、彼は緩くその双眸を細めた。微かに視界が赤くなる。何かしらの要素があって、彼の心は高ぶっている、らしかった。
その眸を真っ直ぐ見据えていてその変化に気づいているはずのナナシは、しかし眉一つ動かさない。

「君はこの世界にいるはずのない存在だろうけど。私は君が好きだ。君の顔が好きだ。君の声が好きだ。君の身体が好きだ。君の強さが好きだ。君の酷薄さが好きだ。君の眸が好きだ。君の手足が好きだ。君の心が好きだ。君という存在が好きだ。だからずっと君を見ていたい。だからどこにも行かないでほしい。わかる?」

畳み掛けるような言葉を「わからん」と断じる事はできなかった。元より彼は情動が希薄で、それゆえかナナシに呆れ果てられるほどに鈍感であるらしかったが、ここまで言われてその意図を微塵も理解できないほど無感情ではない。それなら「どうでもいい」「関係ない」と切り捨ててしまえばよかったのだが、どうしてだか彼にはそれもできない。

「…黙ってるって事はわかるって事かな? どっちにしても、まぁそんなわけだから私は君を離したりしないよ。これでも寂しがりなんだから」

そう宣言するや否や、ナナシはぶわりと魔力を展開させた。治癒魔法とは違う術式―――転移の、それ。

「どこかに行きたいんでしょう。君がいないなら私がここにいる理由もないし…一緒に出よう」

詠唱していないどころか会話しながらでも、術式は些細なブレさえ見せない。情動の薄い彼から見ても見事な腕前だ。
歩いて神殿を抜ける手間が省ける、と判断した彼が大人しく身体の力をすとんと抜くと、ナナシは値踏みするように双眸を細めて術を発動させた。自分の影を使って水に溶け込む時とは違う感覚。移動している感覚も勿論、自分でそうするのとは全く異なるものだ。
外、と言うからにはナナシはハイリア湖畔に出るつもりだろうか。あそこなら魔力の回復はしやすいが、彼女の態度から察するに回復を終えても解放はされないだろう。
水の気配を感じながら、彼はあまり働かせた事のない思考回路を巡らせた。






(拙宅のダークリンクについてあれこれ:「リンクが7年の間に増すはずだった力の権化」として偶発的に発生したもの。あの世界に存在しうるはずがないので実体の固定と生存に魔力が必要になる。発生したのがリンクが封印されたのと同時だったのでプラスアルファで力が増した。)



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -