過去、未来の記憶
「はい、これ」

ナナシは手に持った物を眼前の男にずいっと差し出した。
男、アポリアは僅かに眉を寄せ、いや、と言う。

「私はあまり物を食べないのだが…」
「食べないだけで、食べる事はできるんだろう?」
「…一応は可能だ」
「だったら食べよう。美味しいよ、トリシューラプリン」

ぐいぐいと押し付けられ、アポリアは勢いに押されてそれを受け取った。
ナナシはにっと勝気に笑うと、その場に行儀悪く胡坐をかいて自分の分のプリンを開封した。
備え付けのスプーンでプリンを頬張るその姿と押し付けられたプリンを見比べ、アポリアは困惑する。

「…ナナシ、せっかくだが…」

僅かな逡巡と共に言葉を切ると、ナナシはスプーンをくわえてアポリアを見上げた。
つまらなさそうにスプーンを上下に揺らし、視線を外しては歯とスプーンの隙間から溜息を一つ。

「…仕方ない、アンチノミーを誘うか。ついでにパラドックスとゾーンも」
「あぁ、その方が―――」
「なんて、言うとでも?」

ぎろりと睨まれ、アポリアはぐっと眉を顰める。
そんな彼を楽しむように両目を細め、ナナシは僅かばかり腰を上げるとアポリアの手を掴んで引いた。
必然、アポリアはその場に腰を下ろす事になる。

「…食事は何も、空腹を満たすためだけに存在しているわけじゃない」

ぱくりとプリンを一口頬張ったナナシはそう言い、「まぁ私は人間だし、食べなければ生きられないがね」と笑う。
ぱちくりとアポリアが瞬くと、彼女は喉の奥で軽く笑ってアポリアが持ったままのプリンを顎をしゃくる事で指し示した。

「美味しいよ」
「………」
「美味しいもの、特に甘いものを食べると脳にドーパミンという物質が分泌される」
「…ほう」
「これが分泌されると、脳は幸福感を得る。有体に言えば幸せになれる。今まさに私は幸せだ」

どう見ても「幸せ」よりは「悪戯」に近い勝気な笑みをそのままに、ナナシはもう一口プリンを頬張る。

「このプリンは決してまずくない。一口ぐらい食べろ」
「…しかし」
「これ以上ぐだぐだ言うつもりならゾーンの生命維持装置を5、6回蹴りに行くが?」

とんでもない事を口に出され、アポリアは押し黙った。
ゾーンの事だ、容易にそんな事を許しはしないと思うが―――ナナシなら宣言した回数を蹴るまで追いかけかねない。
自分のせいで友に何かあっては困る、という結論に至り、アポリアは無言のままプリンを開封した。
満足そうに笑うナナシを視界の端に納め、うまく乗せられたような気になってしまう。

「………」

ぱく。一口。
甘い。

「…甘いな」
「プリンだからね。…美味しいだろ?」

胡坐に頬杖をついたナナシに見上げられ、アポリアは小さく笑った。

「あぁ。美味だ」



++++++



菓子を咀嚼しながら脳裏によぎったのは、何だったのだろう。ずっと過去の思い出だろうか。それとも、ずっと未来の記憶だろうか。記憶が酷く曖昧になってしまったアポリアには、判然としない。
ただ…何となく忘れられない、忘れたくないような気がして。アポリアは紅い目を軽く伏せた。そして同時に、他人の家の冷蔵庫を漁った事は頭の中から追い出す。

「…ん」

くぐもった声が聞こえて目を開けると、部屋の主である男が起きるところだった。

「目覚めたか」

声をかけながらも、菓子を貪る手は止めない。
もう少しだけ、記憶らしきものを追っていたかった。





(お菓子のくだりがかわいかったので。チョイスは作者の好みです)



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