症状、良からず
さり、さり、と床を摺るように歩いてきた双子の姉は、カイトが見た限りではいつもと変わらなかった。朝に弱い彼女は朝食の時に覚束ない足取りで食卓までやってくるし、ぱっちりと目の覚めているハルトやフェイカーの「おはよう」という挨拶にも生返事をするか敬礼するような仕草をするだけだ。そして今朝もその例に違わなかった。
しかし、並んだ朝食を見て眉を顰めたのは初めてだった。そして目の前に並べられた食事の大半を残したのも、初めてだった。

(…あの時点で気付くべきだったな)

土気色の顔色を晒して眠るナナシの頬に指先を伸ばし、カイトは溜息を吐いた。触れた肌は常よりも熱い。彼女の平熱は決して低くはないのに、それを差し引いても熱い。
朝食の後、部屋に篭ったナナシは昼食の時間になっても現れなかった。何度ノックをして何度声をかけても呻くような返事しかない、とハルトから聞いて、多少の失礼を承知で部屋に踏み込んだら、真夏だというのに空調を切った蒸し暑い部屋でブランケットに包まるナナシがベッドの上にいた、という次第だ。
ハルトとフェイカーには先に食事をと告げ、体温計を手にナナシの部屋に戻り、血色が良いとは言えない額にその先端を向け―――示された体温は「37.8度」。

「…ん」

頬を撫でられていたナナシが身を捩った。ぱっと離した指先の向こうで、ぼんやりと焦点の合わない瞳がカイトに向けられた。

「…起きたか」
「…さむい」
「少し待て」

ベッド脇の小さなテーブルに置いた体温計の電源を入れ、額に向ける。電子音を確認してデジタル画面を見る。38.2度。なるほど。

「熱が上がっている。寒いのも無理はない」
「…あ、やっぱ、出てたか」
「…自覚していたのか」

んー、と呻きながら寝返りを打って、ナナシはぼんやりと視線を彷徨わせた。何かを見ようとしているのではなく、ただ目を開けているから視界の確保をしているような、そんな調子だ。

「起きた時、少し、肌が痛かった…っていうか、何か、ぴりぴりした」

言いたい事はわかるがその感覚を明確に思い浮かべる事ができず、カイトは微かに眉を顰めた。カイト自身が最後に熱を出したのはもう何年も前の話だ。
ナナシはゆっくりと吐息して緩慢に身を捩り、かけられたブランケットを抱きかかえるように身を丸めた。寒いのだろう、後でもう一枚持ってきてやるか、と考えながら、軽くその頬をはたく。

「…そういう時は早く言え」
「…うん」
「粥を作ってやるから少し待っていろ」
「…う、ん」

素直に、しかし躊躇いがちに頷いたナナシの頭を撫でる。心地よさそうに目を細めたナナシがすり、とその手に擦り寄った。が、数秒もしないうちに手を離す。
後ろ髪を引かれそうなのは彼女よりもむしろカイトだった。残念そうな視線を寄越すナナシを振り払うようにして踵を返し、部屋を出る。
卵粥を作る合間にフェイカーに理由を話せば彼女を心配する言葉と共に快く休みをくれ、ありがたさと申し訳なさを感じながらタオルを巻いたアイス枕とブランケットの用意をした。煮込んでいる間にそれをナナシに届けた時も二人して後ろ髪を引かれそうになったものだが、粥を持っていくまでの短い間の話だった。
粥の入った椀を持って部屋に戻れば、ナナシはしっかりとカイトに視線を寄越して身じろいだ。そうして椀を差し出そうとしたカイトの、空いた方の腕を掴む。火傷するのではないかと思うほど、熱い。

「…ごめん、カイト…起こして、ほしい」
「起きられるだろう?」
「無理…力、入らない…」

その答えを聞いて椀をサイドテーブルに置き、匙をその中に突っ込んでからナナシの腕を掴んだ。身を屈めて背中に手を差し入れ、ぐっと力を込めて身体を起こす。つられるようにして、ナナシの身体も起き上がった。
ありがとう、とぼんやりした声で礼を述べたナナシが顔を顰め、指先で米神を抑えるようにして頭を抱えた。

「…痛むのか」
「ん…ガンガンする」

あれだけ熱が出ていれば無理からぬ事だろう。あまり辛いようなら解熱鎮痛剤を飲ませるべきか。彼女は錠剤であれ粉末であれ薬を、特に解熱剤を嫌う。カイト自身もあまり好んではいない。あれは体内の免疫を無視して無理に熱を下げるから、飲んだところで風邪が長引く原因になる事の方が多い。
それでも、余計に辛い思いをする必要はないと思うし、熱が下がっている間に滋養のあるものを食べれば、治りも早くなろうものだ。
ゆっくりと指先から力を抜いていくナナシの様子を窺う。呼吸は不規則で、赤みの差した顔は眠っていた時と同じく土気色を晒している。朝はこんな顔色ではなかったから、殊更に悪くなったのは昼前なのだろう。
ややあって、ナナシが細長く吐息しながら完全に手を離したのを確認したカイトは改めて卵粥を差し出した。力なくそれを受け取ったナナシが微かに眉を寄せる。朝食の時に見せたのと同じ表情だ。

「…あまり無理をして食べなくてもいい」
「…食べる…食べなきゃ、治らない、から…」

病んでいるくせに、先ほどは何の迷いもなくカイトの助けを乞うたくせに、意地を張る。どうしようもない奴だと思いつつも口にはせず、密やかに溜息を吐くに留めた。
いただきます、と呻くように言ったナナシを、そこから先は見ていられなかった。仇敵でも見たかのような表情で、食事を義務だか課題だかと捕らえているかのように、味わうというよりは食道を通して胃袋に落としているだけだった。―――とてもではないが、見て、いられなかった。

「…ごち、そ、さま」

カイトが目を逸らしていくらか経って、ナナシがサイドテーブルに椀を置いた。視線を戻せば、大きくはない椀の中に半分も入っていなかった卵粥は、三分の一ほど残っていた。思わずナナシを見やる。
溜息を吐いたナナシはぱったりとその場に倒れ込むようにしてベッドに横たわり、もそもそと身じろいでアイス枕に頭を乗せた。深く呼吸をして、カイトを見上げる。星雲色をしたカイトの視線と己のそれを合わせて、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「…ごめん……もう、無理、吐きそう」
「…いや」

無理をして食べなくてもいいと言ったのはカイト自身で、その言葉に偽りもなかった。吐きそうだというのなら尚の事、無理に詰め込むような真似はさせたくない。
カイトはゆっくりと視線を外しながら椀を手に立ち上がった。ラップをかけておけば温め直せるだろう。

「薬はどうする」
「…飲みたくない」

やはり。予想通りの言葉に溜息を吐きそうになって、カイトは眉根を寄せた。

「…熱がまだ上がるようなら力尽くでねじ込むぞ」
「…どうしても辛くなったら飲むから…ねじ込むのは、勘弁ね」

常より幾分か低められた声音に何かを感じ取ったらしいナナシは諦めだか辛さだかよくわからない溜息を吐いて頷いた。
それを確認したカイトが部屋を出ようとして―――掠れた声に、引き止められる。

「カイト」
「何だ」
「水…後で、頂戴」
「わかった」

短く、そして素っ気なく頷いて、カイトは今度こそ部屋を出た。
風邪の時には水分はこまめに摂るべきだ。後でと言わずすぐにでも持って行ってやろう。
足早にその場を離れたカイトはてきぱきと粥にラップをかけ、冷蔵庫に入れた。それから、記憶も朧な幼少期に揃いで使っていた、ストローのついた水筒を引っ張り出す。中を軽く洗って水で満たし、置き薬から解熱鎮痛剤を取り出してナナシの部屋に戻った。ナナシがずるずるとのたうつようにして寝返りを打っているのを見て、顔を顰める。

「…少しは大人しくしていろ」
「…身体、痛い、から」
「どこがだ」
「頭と、目と、背骨と、喉」

つまりほぼ全身か。溜息を吐いて、彼女が頭を預けているアイス枕を見やる。

「…枕は」
「…裏返せば、冷えてる、かな」
「替えてきてやる」
「お願い、します」
「その前にこれを飲んでおけ」

ぽん、と目の前に薬を差し出す。ナナシの顔があからさまに顰められた。端麗な顔が歪んで、力なくじっとりとカイトを睨んだ。
その視線を無視して頭の下からアイス枕を強奪すれば、う、と呻いたナナシは目頭を押さえた。そういえば目と頭が痛いのだったか。少し手荒に扱ったかもしれない。

「いらないって、言った」
「気が変わった。本当に力尽くでねじ込まれたくなかったら言うとおりにしろ」
「…乱暴、だね」

辛い顔を見ていたくはない。なまじっかハルトよりもよほどか近い場所にいる姉だから、口には出さないがその思いは強かった。
ナナシはついと薬の包装をつついて、それからカイトを見て、ぐ、と眉根を寄せた。その額を軽く弾いてやれば大袈裟に目を瞑って、諦めたように脱力した。それを確認して、アイス枕を手にカイトはまた部屋を出た。軽いやり取りのお陰で、それまで感じていた名残惜しさのようなものは感じずに済んだ。
冷凍庫から冷えたアイス枕を取り出し、ぬるくなったものは底の方へと押し込んで、新しい枕にタオルを巻きながらナナシの部屋に戻る。と、彼女は包装を両手に持って弄っていて、顔を顰めていた。

「まだ飲んでいなかったのか」

幾度か口には出したがやる気のなかった言葉、即ち「力尽くでねじ込む」を実行すべきかと考えながら姉の頭を持ち上げる。その下にアイス枕を差し込んでゆっくりと慎重に下ろしてやれば、ナナシは軽く吐息してその枕に頭を擦り付けた。それから、枕元に下ろした薬をつい、とカイトに差し出す。

「…出して」
「は? それぐらい…」
「固い」

無理。忌々しそうに包装を弾いたナナシがそう言って、懇願するようにカイトを見上げた。どうやら本当に薬を出せずに悪戦苦闘していたらしい。仕方なく薬を取り上げてぐっと指先に力を込め、包装から押し出そうとする。
確かに固かった。ナナシの言葉に疑念を持った事に多少の申し訳なさを感じる程度には、固かった。
薄いアルミの膜を破ってころんと指先に転がった錠剤を差し出せば、ナナシは手の甲を上にして両手を差し出した。

「…あぁ」

力が入らないのだったか。卵粥を食べさせる前に言われた事を思い出し、薬をサイドテーブルに置いて姉の熱い両手を掴む。小さな子供を起こしているようだ、と錯覚しながら力を込め、常より重く感じられるナナシの身体を引き起こす。ほとんどカイトの力だけで起き上がったナナシは「ありがとう」と小さく礼を述べ、サイドテーブルに置かれた薬と水筒を手にした。
水を口に含んで、次いで薬を口中に放り込んだナナシの顔がこれ以上なく顰められる。一体どうしたというのか。ごくん、と嚥下したナナシは怪訝な顔を晒すカイトを見上げ、唇をほんの少し尖らせた。

「…何、これ、凄く苦い」
「錠剤に苦いも何もないだろうが」
「でも苦かった」
「…気のせいだ」

多分な、とは口には出さず。ぺたりと熱を持った頬を撫でてやれば、彼女はゆったりと目を細めて横になった。

「…何かほしいものはあるか?」
「んー、ん…今は、何も。…ちょっと、寝る」
「わかった」
「…寝るまで、いてくれる?」
「…まるで子供だな。いてやるからさっさと寝ろ」

頬を撫でていた手を移動させて軽く頭を撫でる。安心したように目を閉じたナナシの手を緩く握ってやれば、赤ん坊が反射でそうするような仕草でぐっと握り返された。
熱を出しているから血行は常より多いはずなのに、やはりその顔色は土気色だ。その様はあまりにも弱弱しく、これが本当にあの気丈な姉なのだろうかと疑いそうになる。頭を振ってその疑念を振り払った。
いくら気丈でも、この5年間ただの一度も体調を崩さなかったとしても、それでも彼女は人間だ。科学技術をこの身に捩じ込んだせいで到底人間とは呼べなくなってしまった自分とは違う。身体が弱る事もあろうし、弱れば熱も出よう。
薬が効く頃には暑さで目を覚ますだろうか。そうしたら果物でも剥いて食べさせてやろうと、カイトはナナシの寝顔を眺めた。





(思った以上に長くなったので続きます)



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