狂星の双つ子
※「*」はございませんが少々ご注意を。








「いつまでこんな事をしているの」

本のページを捲ろうとしたXの指先が、ひたりとその動きを止めた。ゆっくりと顔を上げれば、勝気な言葉とは裏腹に泣きそうな顔をした半身と視線が合った。
彼女はラピスラズリのように薄らと紫がかった青い瞳を揺らし、ぎゅ、と額を抱えるようにしていた。額。Xと同じく、彼女がトロンから譲り受けた紋章の力が集中している場所。Xは無言のまま片割れから視線を外し、本に視線を落とした。
それはある種の逃避だ。欺瞞だ。目を逸らしているだけだ。家族の中で、少なくとも兄弟の中では、誰よりも現実的な思考を持っているはずのXは、しかし彼女の言葉とその意図、そしてその前提となっているこの状況ときっちりと向き合いながら、しかし全くそれを見据えてはいない。
すっ、と、しゃくり上げるような音が聞こえた。彼女は母を思わせる優しさと少女の純粋さを持ち合わせている。それでいて、Xと同じく現実的な思考をも、兼ね備えている。

「ねぇ」

そう。Xと、同じ。直視しきれない現実に向き合おうとして、それでもやはり直視できないから、目を背ける。

「X」
「―――」

ぽん。軽い音を立てて本を閉じ、Xは再び顔を上げた。指先が白くなるほど、彼女は力を込めて、白い額に爪を突き立てていた。あぁ、そんなにしては、額が切れてしまう。あぁ、せっかく、傷ところかシミも黒子もない綺麗な肌なのに。
緩慢に指先を伸ばしたXは片割れの腰を掴み、やはり緩慢に引き寄せた。抗われる事もなく、華奢で柔らかい身体がXの膝の上に座り込んだ。表情を隠すようにして、額を抱えたまま。

「…ナナシ」

呼ぶのが5年ぶりになる、本名。弾かれたように彼女の顔が上がる。あぁ、傷にはなっていないが、額にはやはり痕が残っていた。あかくその存在を主張し始めた三日月形に、労わるような手つきでXの指先が触れた。
クリス、と呼ばれる。こう呼ばれるのも5年ぶりだ。父、否、トロンが還ってきてから、彼女は彼をクリスとは呼ばなくなってしまった。兄弟が父を父と呼ばなくなってしまったのと同じように。彼が彼女をナナシと呼ばなくなってしまったのと同じように。
顔が歪んで、それでも涙の一つも零す事はなく、半身はXの肩口に額を押し付けた。するりと絹糸のような髪が服越しにXの腕を擽る。
はぁ、と泣く寸前の熱を孕んだ息を吐き零し、彼女は震えながら口を開いた。

「ねぇ、兄さま、にいさま。いつまでこんな事を続けなくてはいけないの? 私は、わたしは、家族が戻ればそれでよかったのに」
「父は還ってきた。弟達もいる。お前も、私も」
「違うのよ。そうではないの。兄さま。わたしが望んだのは、ほしかったのは、何よりも取り返したかったのは、違うのよ」
「家族が戻ればそれでよかった。今、お前が言った事だろう」
「そうね。そうだわ。その通りよ。でも、違うの。違うのよ」

幼い頃、二人の弟がそうしたように、駄々をこねるように首を横に振る。彼女がこんな行動をした事はない。彼女は聞き分けの良い子供だった。今でも、Xとトロンに従順で。そんな彼女がこんな風になるのを、20年、胎児期間も含めれば21年にもなるか、一緒にいたXは、しかしまるで知らなかった。
弱ったところを見た事は、あった。その時はXが兄として彼女を甘やかした。Xが弱った事も、あった。その時は彼女が姉としてXと甘やかした。
けれども、こんなにも幼い仕草を見せられた事は、一度としてなかった。上下の区別なく育てられた双子だったから、互いにそんな対象として互いを見る事さえ、なかった。
なかったのに、今の彼女は末の弟よりも幼く見えるような仕草でXに縋りついているのだ。これを驚かずして―――悦ばずして、何のためのこの身、この立場だろう。

「兄様。兄さま。いとしいわたしの半身。どうか、今だけでも、夢を見させてください。優しいあなたのゆめを、見させてください。おろかな妹の、わがままです。お願い、します」
「………」
「その夢から覚めた時には、再び、貴方達の従順な手駒となりましょう。復讐のため、トロンの悲願のために、この身を捧げましょう。この脆弱な愚妹に、どうか、情けをかけてください」

あぁ、血を吐くような醜い声で無様に訴える彼女の惨めな姿の、何と可愛らしい事だろう。Xは氷の冷たさと焔の熱を孕んだ視線をうっそりと細め、そっと彼女を抱きしめた。微かに硬直した彼女の髪を掬い上げて耳にかけ、露出したその耳朶に口付けながら、とろりと甘い声を、弱りきった彼女の脳髄に注ぐ。

「ナナシ。いとしい私の半身。こんなにも弱り果てて、可哀相に」
「にい、さま。クリス、にいさま」
「愚かなどではない。お前のその弱さは、愚かではないよ。お前はとても優しいから、そうして思い詰めてしまうんだ。だが、ナナシ。よく聞きなさい。お前が気に病む事は何もない。お前は何も悪い事をしていないのだから」
「ほんとうですか、にいさま」
「ナナシ? お前は、私の言う事が」

し ん じ ら れ な い の か ?
ふすふすと笑い声と共に澱んだ声を流し込めば、彼女はぶるりとその身を震わせた。そうして、堰を切ったように、ぼろぼろと涙を零し始めた。白い肌を伝う雫の大きさたるや、上質な織りで仕立てられたXの服に落ちるや雨粒が屋根に落ちるような硬い音を立てるほどだった。

「ちがうの、違うのよ。兄さま。わたしは、いつでも、兄さまを信じているのよ」
「それでは、本当かなどと疑うような事を言ってはいけないよ」
「はい、はい、にいさま、わかりました」
「いい子だ。ナナシ、お前は昔から聞き分けの良い子だね」
「にいさま…にいさまぁ…」

あぁ、可哀相に。あぁ、愚かしい。あぁ、いとおしい。あぁ、これはわたしのものだ。今も、昔も、私しか寄る辺を知らない、哀れで愚かで無様で何よりも美しい、私の。
Xはくつりと仄暗い笑い声を零して、はくりと彼女の耳を甘く噛んだ。つぅ、とくちびるでその形状をなぞるように離れれば、彼女はふるふると堪えるように身体を震わせるのだ。柔らかく冷やりとした耳朶を舌でぞろりと舐め上げれば、よりいっそう、怯えだか悦楽だかで震えるものだから、あぁ、やはり、彼女はいとおしい。

「私達は今でも家族なんだ。以前のように同じ屋根の下で暮らし、以前のように茶会を開く事もできる。そうだろう、ナナシ? そうでしょう、姉様?」

どこまでも意地の悪い声で姉と呼べば、彼女はぐぅときつく握られた蛙のような声を零した。やはり彼女は愚かしく無様だ。外見の話ではない。顔の造作や身体のバランスは、一流の人形師が研鑽に研鑽を重ねて、綿密な計算と研究を繰り返して、最良の材料を使って、幾年月もかけて、ようやく作り上げたビスクドールのように美しい。しかしその人型に閉じ込められた心は穢れを知らず、それ故に実父から植え付けられた穢れをそうと認識できず、こうしてXが吹き込む澱さえも拒む術を持たない。心を持つ者としての致命的なその欠落が、彼女を愚かたらしめ、彼女を無様たらしめ、彼女を彼女たらしめた。
ほら。その証拠に、顔を上げた彼女は泣き腫らして尚美しいラピスラズリで確りとXを、その向こうの壁を見据え、そこにないものを見ようとして、見ているつもりで、慈愛に満ちた笑みを見せるのだ。

「そうね。そうだわ。私達は家族なのだわ」
「そう思うのなら…ナナシ姉様。もう私達を疑うような事は言って下さいますな」
「えぇ、えぇ。勿論よ。でも、ねぇ。もう少しだけ、私をこうして、甘やかして下さいますか? 兄様」
「姉様がお望みなら」

恍惚と笑みを見せて薔薇色の唇に己のそれを被せ、Xはロンドンブルートパーズの瞳を細めた。瞼の向こう、片割れのラピスラズリが震えているのが、至近距離だからこそ認識できる。
ふ、と鼻から抜ける甘い吐息を感じ、ぽってりと官能的に濡れた唇を真っ赤な舌でなぞりながら、離れる。長い睫毛に縁取られたラピスラズリがゆっくりと現れ、親とはぐれた迷子の不安と褒美をもらえる仔犬の期待を孕んでXを見つめた。
兄弟が長く細く絹糸の質感を持った髪を透けば、姉妹はうっとりと熱っぽくラピスラズリを細めてその手に擦り寄るのだ。その仕草は母猫に擦り寄る仔猫のそれそのもの。

(いつまでこんな事をしているの)

最初の質問はもう既にあやふやになってしまった。長兄の中でも、長姉の中でも。彼らはこうして視線を逸らすのだ。こうしてしまえば復讐という大義名分が壊れてしまう事はない。こうしてしまえば危うい均衡の上に成り立った家族のバランスが崩れる事はない。お互いにとってこれはとても都合がよかった。
そう。都合が、よかったのだ。




(男女双子で互いを兄様、姉様と呼ぶのが好きです)



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