水棲願望陸棲生物
ぷかぷかと空を見上げる。青い。さあさあと空気の流れる音が、たぷん、たぷとぷん、と不規則に遮られる。瞼を下ろせば、重力と浮力を同時に受けるあの感覚を具に感じ取る事ができた。このまま溶けてしまえたらと思う反面、そんな事をしてはこの感覚を感じる事ができないから、それはやっぱり駄目だ、とも思う。
ふわりふわりとした感覚の中、不意に後ろから二の腕をついとつつかれ、凌牙は瞼を上げた。つつかれた方の手を静かに沈めると、戯れるように指先を絡め取られた。それを一度解いて、すぅ、と空気を取り入れた。肺の隅々まで空気が甘く満たされていく。凌牙は身体を反転させ、空気の世界に短い別れを告げた。
感じるものはプールに潜った時のような無機質な水圧ではなく、もっと違う、もっと大きな、安心するような、それでいて情けも容赦も感じ取れない、無慈悲な水圧。
耳に聞こえるものはプールの壁のように反響するあてもなくかぷかぷと半端に耳を刺激する水音。
目に見えるものは競技用のプールよりもっと深く仄暗くおぞましいコントラストの中、歪で美しい模様を描き出す砂。
波のような山のようなミミズのような海月の触手のような、奇妙な模様を描く砂にもう少しで触れる、というところまで潜って、凌牙はくるりと身を翻した。かぽろん、と耳を打つ水の流れは、水の中で緩やかに動く髪は、心を落ち着かせた。髪の隙間から、水面の遥か上で白い光を不規則に放つ太陽が見えた。多量の水を通しているからか微かに青みがかっていて、痛いほどの眩しさは感じない。
髪が定位置付近でゆらゆらと漂い始めた頃、先ほど彼の二の腕をつついた少女が膨れっ面を覗かせた。どうやら一人だけずっと泳いでいたのが気に入らなかったらしい。凌牙は唇の端を上げ、ゆらゆらと手を動かして招いた。顔を輝かせた彼女は細い脚で水を蹴り、白い腕を凌牙に伸ばした。
指先を捉えられる距離になったのを確認し、凌牙は先ほど自分がそうされたように指先を絡めるとそのまま少女の肢体を引き寄せた。反動で沈んだ背中が水底の砂に触れ、舞い上がった粒子が凌牙の首筋をくすぐる。
空を思わせる瞳で己を見つめる少女の耳の裏に片手を差し込み、風に煽られたかのように四方八方へ広がる髪を、きしり、と後ろへ流した。陸上であればさらりとした感触だったのだろうか、とくだらない事を考え、それを振り払うように顔を寄せた。
ひやりとした唇の感触は柔らかい。しかし長時間こうしていたせいだろう、舌先でこじ開けた小さな唇は冷たく、いつものような感触は全く得られなかった。しかしこれはこれで心地良い。
少女の手が真綿のような感触を伴って凌牙の背に回された。それを合図に、潜る直前に必要以上に取り込んだ空気を送り込む。一度凌牙の肺を通ったものだが、呼気に含まれる酸素濃度は人工呼吸に使用しても何の問題もないほどだ。気にする必要はない。
少女の胸部から腹部にかけて、ふくふくと盛り上がる。対照的に、凌牙のその部分は微かにへこむ。今度は逆に、少女のそこがへこみ、凌牙のは盛り上がる。互いの呼吸を共有している証だった。
水中での呼吸は、お世辞にも心地良いとはいえなかった。生温くねっとりとした呼気はいつも吸っている空気ほど清澄ではないし滑らかでもない。加えてさして深くないとはいえ水圧のかかるこの状況では、水面上と比べると取り込める酸素は小さい。
水圧で圧縮されて取り込める量は相対的に少なくなるだけであって、実際は「少ない」のではなく「小さい」のだと、今凌牙の息を吸っている少女が至極楽しそうに説明していた事を思い出しながら、ゼロ距離に存在している唇を、ぐ、と殊更に強く押し付けた。とっくに呼吸できるだけの酸素は消費してしまっていて、あとはどちらかの息が切れるのを水中で待つだけだ。それまでは好きにさせてもらおう。
ぽろん、ぽろろん、と調律の行き届かない弦楽器のような水音の中、少女の指先が軽く凌牙の背を叩いた。非難するような視線を見るに、そろそろ息が続かないらしかった。仕方がないとは思うが、そろそろ凌牙も限界だった。名残惜しみながら唇を離すと、こぽ、と零れた小さな気泡がふらふらと頼りなく水面へ向かって昇っていった。
繋いだままだった手を解き、少女の細い肢体を支えた凌牙はその気泡を追って水面を目指した。かぽろかぽろかぽろ、と水の流れるくぐもった音を聞きながら、水面へ。
ざあ、と水面に出た少年と少女は、まず細やかに息を吸った。大きく吸ったら肺が縮むような感覚とぴりぴりとした喉の違和感に襲われ、咳き込んでしまう。清澄で人肌よりは冷たくも温い空気を効率的に吸い込むには、最初は細い呼吸が必要だ。それから徐々に大きく、呼吸を整えていく。あぁ、この時の、ぜぇ、と喉の奥で鳴る音は酷く耳障りだ。
あらかた呼吸の整ったらしい彼女は、ひゅ、ひゅ、と犬笛を鳴らそうとして失敗したような音を立てながら、先ほど凌牙がそうしていたように、仰向けでぷかりと水面に浮かんだ。眩しそうに蒼穹色の瞳が細められる。
自身も呼吸を整えた凌牙は同じように仰向けになり、少女の隣でぷかぷかと浮かんだ。あぁ、水面より上から見る太陽は、やはり眩しい。目が痛い。だからこのまま溶けてしまいたいと思うのに、それは駄目だとやはり思い直す。
少女が不意に凌牙の手を取った。長時間水に浸っていた手はふやけてしまって滑らかさの欠片もない。それでも柔らかさを保つそれを凌牙はしっかりと握り直し、ゆっくりと目を閉じた。
水の中は心地良い。呼吸こそできなくなるが、こうして浮力に身を任せる感覚は例えようもなく凌牙の心を癒したし、潜った時に全方位から襲う水圧は、それでもよほど深く入らない限りは凌牙を害する事はないし、水深数百メートルと潜る事のない凌牙には実質大した関係のない話だった。だから、水に溶けてしまいたい、と幼い頃から何度となく思っていた。
それを惜しむように思い直す習慣がついてしまったのはひとえにこの少女のせいだ。彼女は凌牙と同じく水の中を好み、水に浮かぶ事、沈む事、潜る事を好んでいた。泳ぐ事を最優先としないこの感覚と感情を共有できる相手というのは、凌牙にとって希少な存在であり、その存在から離れてしまうのが嫌で、最近は水に溶けたいという思いを惜しむようになった。
隣の彼女はどうなのだろう。水に溶けたいと思った事はあるのだろうか。凌牙がいるからとそれを思い直した事はあるのだろうか。多少気にはなったものの、必ず訊かなければならない事でもないか、と凌牙は小さな疑問を握り潰した。く、と指先に力を込めると、彼女も緩やかに握り返す。
水に溶けるのが無理でも、水の中に生きる事ができればどれほどか幸せだっただろうに、それさえできない少年少女は水にその身を遊ばせた。



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