自由
「しょ、う、がな、い…よね」

ナナシは、天井をじっと眺めながら不意に呟いた。

「何がだ」

鬼柳は金の双眸を薄らと細めた。ナナシは、ぎこちない動作で鬼柳に顔を向ける。

「う、ぉ……うご…けない、こ、と」

ふるふると震えた唇が彼の問いに対する答えを放つまでには、随分と時間がかかった。声を放つまでだけではない。たった一言を告げる間も、鬼柳がそうする時の数倍はかかった。
それが彼女の病だ。ゆっくりと長い時間をかけ、立って歩く事はおろか、カードを持つ事も、喋る事も、果ては呼吸さえも許されなくなっていく。鬼柳が初めて出会った時には既に車椅子なしでは移動できないようになっていた。今ではベッドに寝たきりに、喋るのに人の数倍はかかるようになり、呼吸さえ辛いため酸素のチューブを入れている。
しょうがない、と言ってしまえばそれまでだろう。彼女の病はそういうもので、しかも根本的な治療法はおろか原因さえわかっていない。

「…しょうがない」
「………」
「ってのは、少し違う気がする」
「…?」

首を傾げる事もできず、ただその視線のみで疑問を示すナナシの瞳を真っ直ぐ見据え、鬼柳は微かにその眉尻を下げた。

「いや、違うか…オレがそう思いたくねぇだけだ」

彼女の不自由がどうにもならない事だと、意味さえない事だと、そんな風には思いたくない。それは、例えるなら物事が思い通りにいかず癇癪を起こす幼子のような感情ではあったし、ともすれば彼女への侮辱に値するようなものでもあったが、そうとわかっていても。
鬼柳はナナシの手を取った。年頃の女性らしい丸みも、肌の滑らかさも、そこにはない。痩せ衰えた皮と骨の感触ばかりだ。

「…オレはお前がこうなった事にも意味があると…信じたい」
「…き、りゅ」
「遊星が…あぁ、オレの仲間がな? よく言ってたんだ。『この世に意味のない物なんてない』って。…物だけじゃなくて、全ての出来事にもそう思ってる節があったよ」
「………」
「で、オレも…その良し悪しは別にして、まぁ、同じように思ってる」

「だから、ナナシの病気がしょうがないなんて思いたくねぇ」と、鬼柳はナナシの手を指先でゆっくりと擦った。辛うじて眼球だけを動かしてその様子を見ていたナナシは、「う、ん」と頷くような声を零した。



++++++



ナナシの遺灰を納めた壺を片手に抱え、鬼柳はもう片方の手を眺めた。思い出そうとすれば、あの日重ねた手の感触は鮮烈に蘇る。
暫し物思いに耽るように目を伏せてから、壺の中にその手を入れる。灰を掴んで、宙へ放る。風の強い日だ。無造作に放ったその灰は地面には降りず、ぶわりと思い思いの方向へ飛んでいく。

(鳥みてぇだ)

そんな事を思い、即座に否定しながらもう一度灰を放る。まだまともに話ができた頃、ナナシは鳥を「風切り羽根がなかったり踏み切れなかったりすると飛べないんだよ。あんまり自由じゃないよ」と評した。風に乗って羽根も踏み切る事もなく飛んでいくそれらを鳥と称するのは、だから気が引けた。

(じゃあ虫か?)

これも即座に否定しながら、放る。小さなものが大挙して飛び回る、というと羽虫を思い浮かべるが、ナナシは虫が大の苦手だった。インフェルニティ・ビートルのカードを見て顔を引きつらせた彼女に何度もあのカードを見せてからかい、「ニコに頼んで破り捨ててもらおうかな」などと真顔で言われたのは笑い話になった。それほど虫を嫌っていたのに、虫を連想するのは酷だろう。

(じゃあ、何だろうな)

簡単な話だ。「そのどれでもない」。結論を出した時、ばっ、と最後の一掴みが宙を舞った。壺の中にはもう、何もない。鬼柳は最後に、その壺を思い切り遠くへ投げた。焼き物の割れる軽快な音が聞こえた。
空を見上げる。何もない。先ほどまで放っていた灰はもちろん、海面に雪の塊を浮かべたような雲さえない。
ナナシはもういない。彼女を構成していたものももうない。だが、それは彼女自身が望んだ事だ。「死んでまで動けないのは嫌だ」と、ナナシはそう言っていた。だから、これでよかったのだろう。
鬼柳は思う。彼女がああなった事の意味はきっとこれだったのだ。大地を駆け、海を巡り、様々なものとすれ違う事。生前の彼女が叶わなかった事。生身で大空を翔る事。恐らくほとんどの人間ができないであろう事。

「…なぁ、ナナシ。満足してこいよ」

遠くを見渡して呟いた時、鬼柳はナナシの声を聞いた気がした。
輝かんばかりの満面の笑みを連想させるような、明るい声音で。「うん。いってきます」と。





B地区制覇様へ提出



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -