冷たい熱
屋敷に帰って玄関を過ぎると、疲れが押し寄せてきた。身体は酷く重く、頭は重苦しく痛む。服ごと全身を濡らした雨のせい、だけではない事は明白だった。もしかしたら熱が出ているのかもしれない。それでも何とか、倒れ込むような事は避けた。

「あら、クリス…」

ふと聞こえた柔らかな声は、愛しい恋人―――シエナのもので。顔を上げて声の聞こえた方を見やれば、目が合った。腕を伸ばせば届く距離にいた彼女は目を見開き、上から下まで素早く視線を動かして私を見た。

「ずぶ濡れじゃない! 今タオルを…」
「…シエナ」

身を翻そうとしたシエナの細い腕を掴み、振り返った彼女を腕の中に納める。雨水を含んだ衣服や髪が貼り付いて気分が悪かったが、今はシエナを離したくなかった。
ただ、彼女まで濡れてしまう事にだけは、罪悪感らしきものが芽生えた。その罪悪感と、帰って来る直前の腕の感触を消してしまいたくて、私は細い体を掻き抱いた。
もしかしたら私の足元だけ、絨毯が濡れてしまうかもしれない。だが、それを気にかけて移動する気はなかった。

「クリス! このままでは風邪を引いてしまうから…!」

どうにかして抜け出そうとするシエナを押さえ込むように腕に力を込める。「離して」と騒ぐ声を無視して、細い首筋に顔を埋めた。

「クリス…!」
「……少しの間でいい…このままで、いさせてくれ…」

殴りつけるように振り払った腕の感触が、混乱の中に縋るような色を乗せた視線が、次々と蘇った。
掻き消すためにシエナを抱きしめているのに、これでは何の意味があったというのだろう。いっそ無様なほどに縋りつき、不必要に彼女を心配させて。

「………」

痛む頭は熱いのに、身体は酷く冷たい。同じように濡れているのに、おかしなものだ。私はシエナを抱く腕に力を込め、細長く吐息した。

「…クリス、何があったの…? 何だかおかしいわ…」
「………」

―――カイトを、突き放した。
そんな事実を今の精神状態で素直に言えるはずもなく、しかし口を開けば言ってしまいそうだった。元から閉じてあった口の代わりに瞼をきつく閉じると、零れかけた言葉は喉の奥へと引っ込んだ。

「……クリス、お願い…何か言って…」

震えた声で懇願するシエナに申し訳なく思いながら、それでも返事をする事はできなかった。
全身が重い。降ろしている瞼や、閉じた唇すら重く感じる。肺が押し潰されているのではと錯覚するほど、息苦しい。自分で選んだ事なのに、何故これほど苦しいのだろう。わからない。
私にとっては父が―――トロンが最優先だ。そう決めた。決めている。だというのに、何故こんなにも苦しいのだろう。

「クリス…泣いているの…?」
「………」

シエナの問いかけに首を緩く振った。視界は滲んではいないから、涙は出ていない。だから泣いていない。ただ彼女を閉じ込めている腕が震えていたから、彼女がそう勘違いしたのかもしれない。
お互いにずっと黙っていると、シエナが腕を動かして私の背中に触れた。濡れた服の感触が気持ち悪い。彼女の体温の心地良さに目頭が熱くなる。
あぁ、もしかしたら、ないているのかもしれないな。



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