苦痛を愛した
「君はよく喋るようになったな」
「…え?」

唐突に言われた言葉にきょとんとしてXを見ると、くつりと低い笑い声が返った。

「初めて会った時は、名前さえ聞かせてもらえなかったというのに」
「…ごめんなさい」

まさか名乗れなかったどころか失神しそうだったとまでは言えないけれど、恐怖に支配されていたとはいえ、あれはどう考えたって私が悪かった。

「咎める気はないんだが…あの頃と比べたら、と思ってね」
「…まぁ、確かに、そうよね。それが…どうか、した?」
「いいや。単純に嬉しい」

Xの表情が変わった。彼はここ最近ずっと、冷たいまでの無表情でいる事が多かったのに、今の彼は以前でも見られなかったような笑みを浮かべている。
きゅゥ、と細められた蒼い目の奥に狂的なものを見て、私もふすりと笑いを零した。猫を愛でるような手つきで頬を撫でられて、その手に擦り寄る。繊細だけれど強張ったその手が好き。彼の一部だったら何でも愛せる。全身、全て。

「…欲を言えば、君が私だけを見て、私とだけ言葉を交わしてくれればいい」
「貴方が望むならそうしましょうか」
「らしくないな。君ならそれが不毛な事ぐらい、わかっているだろう」
「あら、その『不毛な事』を言わせるような事を言った貴方の方がよっぽどらしくないわ」
「…ふ、確かにそうだな」
「っつ…!」

Xは狂的な笑みを浮かべて私の後ろ髪を掴み、ぐいと上を向かせた。痛い、けれど、Xの顔がよく見える。
上を向かされただけで呼吸が乱れたのは、間違いなく、痛みに対する恐怖から。身体が震えるのも止められなかったし、きっと、今の私は酷い顔をしている。

「…いい顔だ」

Xは満足そうに笑ってそう言って、かぷりと食むようにして私に口付けた。あたまはいたい、くちびるはあまい、そのあまりの差にくらりと眩暈がして、ぎゅっときつく目を閉じた。
首の角度のせいか呼吸がしにくくて、瞼の裏にちかちかと星が舞った。その上Xは舌を差し入れてくちゅくちゅと品が良いとは言えない音を立てて私の口内を荒らす。くるしい。ふわふわする。
窒息しそう、なんて思いながら、震えて力の入らない手でXの服の裾を掴んで緩く引く。彼はずるりと舌を引っ込めて唇だけを離した。ぺろりと惜しむように私の唇を舐めて、Xの綺麗な顔が離れる。

「っは…!」

一度大きく息を吐いて、それから軽く咳き込みながら呼吸を整える。苦しいだけじゃなくて、今気が付いたけれど、首が痛い。
私の様子を見て何を思ったのかわからないけれど、Xは私の髪から手を離してあやすように頭を撫でてきた。心地良い。

「可愛いよ…シエナ」
「…は、ぁ……ぶ、い」
「せめて、その顔だけは私以外の者に見せないでくれ」
「……っ…」

そもそもこんな事、Xとしかしない。それだけ言うのも辛くて、一度頷くだけに留めた。彼は満悦といった様子で笑みを深める。この人がこんなにも表情を出すなんて、本当に、珍しい。
Xは乱れた私の髪を慈しむような手つきで直して、もう一度顔を近付けてきた。充分に呼吸の整った私は小さく吐息しながら瞼を伏せる。
小さな音を立ててくちびるが触れ合った後、ガリッという音を伴って唇に痛みが走った。

「…ッ!?」

どう考えてもXしか犯人はいない、両目を見開いても彼しかいない、彼にそんな事をされたのが信じられない、それ以上に唇が痛い。
混乱と恐怖がない交ぜになってXの胸元を押そうとしたら片手で両手首とも捕らえられた。いたい、こわい。
そのXが労わるようにして私の傷ついた唇を舐める、口内に血の味がうっすらと広がって、舐められるたびにじくりと痛みが走って、きもちわるい、こわい。

「Xっ…痛い……や、ぁ…!」

唇を丹念に舐められる合間にそう訴えると、Xは少しだけつまらなさそうに目を細めた後で顔を離した。あ、形の整ったくちびるが、赤い。
自分の唇に付いたほんの少しの血も舐め取る、その仕草はとても妖艶で、一瞬痛みを忘れた。

「…シエナ、君の血は、甘いな」
「しら、ない…」
「私には、とても甘く思える」
「………」

手が解放されて、するりと頬を撫でられた。肌が粟立つ。怖い。あぁ、くちびる、痛い。

「怖いかい?」
「…うん」
「ここは、痛いかい?」
「…っつ」

ここ、と擦られた唇が、びりりと痛みを訴えた。身体を震わせると、Xはまた満悦といった風に笑って私の唇を食んだ。いたい、のに。
離してほしいという意図を込めて胸元を押す。今度は何もされず、唇が離れた。いたい。
いつからだっけ、彼に、こういう小さな暴力を振るわれるようになったのは。痛みと恐怖と、甘さと、そんなもので支配されながらちらと考えてみる。研究所にいた時は、まだ、こうじゃなかった。そのはず。
それが彼が名前を捨ててから少しして、時々、本当に時々、キスをする時に髪を引っ張られるようになった。その頻度が少し多くなり始めた頃、身体のどこかに噛み付くようになった。最初は謝りもしたけれど、段々、それも少なくなっていった。最終的には今のように、私が痛みを訴えるのを見て愉しむようになった。
拒否、してしまえばよかったのに、彼に縋らなければ生きられない私にそんな事ができるはずもなくて、恐怖だろうが苦痛だろうが受け入れた。

「…シエナ…愛している」

それでも、彼がこうして私の耳元で、私の頭が麻痺し始めた頃、私の脳髄に直接吹き込むように、甘く囁くから。
それが彼の情愛だとしたらそれでもいいかと、答える気力もない私は力の抜けた手で緩やかにXの服を掴んだ。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -