電池切れ
夕食後、洗い物を終えたシエナがリビングに戻ってきたのを物音で悟る。足音が緩やかかつ重苦しい。
顔を上げてシエナに視線を向けると、彼女はやはり重苦しい動きで私の隣に座っては腹部にしがみついてきた。シエナの方からこんなにも甘えてくるなど、珍しい事もあるものだ。
「…シエナ、どうした」
「………」
シエナは無言で行儀悪く足を動かして靴を脱ぎ捨て、脚を折り畳むようにして身体を丸めた。
本のページを確認して閉じ、傍らに置きながらシエナの髪を梳く。ついでというわけではないが胴体に回されている真っ白い手を空いた手で緩く握る。水仕事をしていたせいか、とても冷たい。
「ぶ、い…」
「ん?」
シエナのか細い声に呼びかけられ、首を傾げる。顔を上げようとすらしないシエナはそれきり黙り、代わりとばかりに私の腰に顔を押し付けてきた。その動きが止まったかと思いきや細長く吐息する。
さてそこまで見てようやく、私は彼女に元気がない理由に思い至った。
「疲れているのか」
「…うん」
シエナは酷く幼い仕草で頷いた。単純に身体が疲れただけなら、彼女はこうはならないだろう。という事は、精神的に疲労しているのか。そこまで結論を弾き出してもその先、つまり彼女が何故疲れているのかはわからない。
だがシエナに話す意思がないのならば無理に問い質す必要もないか。髪を梳く手を移動させ、細い肩を緩やかに叩く。
それを甘受していたシエナが、少ししてから顔を上げる。呆けたような、眠そうな、しかし自我は完全に保たれている、そんな表情だ。
「…電池切れ、かも」
「電池切れ?」
「うん…」
単語だけの主張を終えたシエナは顔を俯けては再び私の腰に顔を押し付けた。再び彼女の髪を梳く。握ったままの手は、もうすっかり熱を取り戻している。
何も言わないという事は心当たりがないのか。それとも、単に話す意思がないのか。どちらでも構わないが。
「シエナ」
「…なぁに」
「私にしてほしい事があれば、言ってごらん」
「………」
俯いたまま、シエナが小首を傾げる。私が指に絡めていたせいで髪が少し乱れてしまった。指先を離して髪の流れを元に戻しながら答えを待つ。
時間にして数秒。シエナは再び顔を上げ、かそけき声を零した。
「…だっこ」
「………」
笑いそうになった事は、私の心の内にのみ留めておくべきだろうか。呆、とした表情は可愛らしく、幼い口調と声音で曖昧に口を動かして見上げてくるシエナに庇護欲のようなものが掻き立てられる。
握ったままの手を解放し、少しだけシエナの方に身体を倒して彼女の身体を抱き起こす。そしてシエナの身体を抱き上げ、膝の上に乗せて抱きしめた。いつもどのようにしてあんなにも動き回っているのかと思ってしまうほど軽い。そして細い。
シエナは私の腕の中で身じろいでいたが、しばらくして収まりの良い場所を見つけたようで私に体重を預けた。
「…子供のようだな」
「…子供みたいなの、嫌い?」
「いや?」
少しばかり不安そうに声を揺らしたシエナを抱きしめる腕に緩やかに力を込め、つむじの近くに軽く口付ける。
「どんなシエナでも愛している」
気恥ずかしさの欠片も感じる事はなかった。6年間揺らいだ事のない想いだ。何度口にしても、何も減りはしない。
シエナは緩慢に顔を上げて気の抜けるような無邪気な微笑みを浮かべた。
「…嬉しい。X、すき」
そう言って甘えるように私に頬を摺り寄せるシエナは実に愛らしい。普段は可愛いとか愛らしいと言うより美しいと称した方が合っているからか、余計にそう感じる。
そんな彼女が望むのなら、いくらでもこうしていよう。私はシエナを抱きしめる腕に緩やかに力を込めた。