Kiss!
彫像のように冷ややかな美貌が近付いてきて、唇に吐息が触れる距離になったところで目を伏せると、酷く優しい力で下唇を食まれた。クリスの服を緩く握り締めると同時、ぺろり、舌先で唇をなぞられた。
生暖かいその感触が離れたのを感じて閉じていた瞼をそろりと押し上げると、何故か少しだけ不機嫌そうな顔をした恋人が眼前に。綺麗な柳眉はきゅっと寄せられ、皺を刻んでいる。綺麗な顔だからか、そういう厳しい顔をすると余計に怖いというのに。
とはいえ、今はそれどころではない。彼が私と向かい合っている時にこんな表情を見せるのは本当に稀な事で、今この部屋には彼以外に私しかいないのだから、つまるところクリスがこんな表情をしているのは私に落ち度があるからに他ならないというわけだ。

「…クリス、…どうかした…?」

不安に駆られて素直に問い質した。クリス曰く、こういう時の私は迷子のような顔をしているらしい。あまり聞かせてもらいたくなかった情報だ。
クリスは軽く両目を伏せてすぐに開いた。眉間の皺はもう消えていて、代わりに彼は湖面のような穏やかな表情を見せた。

「…唇が切れているようだ」
「え」

クリスの唇と舌のぬくもりがほんのりと残っている下唇を、今度は自分の舌でなぞった。唇に無数に走る皺とは別に、ぱっくりと割れた感触を探り当てる。…あ、本当だ。
痛くないどころか違和感すらなかったから気付かなかった。軽く噛み締めると薄らとした血の味すら広がるというのに、どうして痛くないのだろう。痛いのは好きなわけではない、どころか人並み以上に嫌いだけれど。

「…最近乾燥しているからかしらね」

私の唾液で濡れた唇を細長い指先でなぞり、クリスは少しばかり気遣わしげな表情を見せた。

「可哀相に」
「大丈夫よ。痛くないもの」
「放っておけば酷くなるだろう。痛くないからといって放っておくのは感心しない」
「…そうね。ごめんなさい」

乾燥によって割れたとしたら、これからの季節はむしろ湿気の多い日の方が少ないわけだから、ちゃんと対策をしておかないといけない。クリスの言うとおり、痛くないからといって楽観視してはいけないのだ。
リップクリームを塗ろうかと立ち上がろうとしたら、それより早く動いたクリスにやんわりと押し倒された。

「クリス…リップクリームを塗りたいのだけれど」
「乾かさなければいいのだろう」

ぞろりと垂れてきた銀糸の髪から覗くクリスの表情の底意地の悪い事。唇の端が引きつるのを感じた。
どうしたものかと思考を巡らせていると、くつくつと低く笑ったクリスにそっと抱き起こされて膝の上に座らされた。そのまま片手で顎を捉えられ、ゆっくりと端整な顔が近付いてくるのを見て軽く両目を伏せる。
甘く柔らかい感触が唇に降りてきて、何度か啄ばむようにされた後、先程と同じようにちろりと下唇を舐められた。くすぐったいが、動かないようにする。
唇を食むようなその仕草に完全に気を取られていて、クリスの手が顎から後頭部に移動した事に気付かなかった。
ぐっとその手に力を込めたクリスは急に貪るような口付けを施し、私はびくりと肩を跳ねさせた。とはいえ抵抗する気はない。クリスの首に腕を回す。薄く唇を開けば、その僅かな隙間から舌が侵入してきた。
歯列をなぞり、私の舌に吸い付き、唾液を絡ませるような、そんなキスなのに私が息苦しさを感じる事はない。クリスは優しいから、多分、私が苦しくならないように加減してくれているのだろう。それでも口内に溜まっていく唾液を飲み干す程度の余裕はくれないのだから、もしかしたら優しさではなくて意地悪なのかもしれない。
まぁクリスが相手なら優しくても意地悪でもいいか、なんて思い、されるがままに身を委ねる。

「…ん」
「………」

ようやくクリスが唇を離した。離れたというと少し語弊があって、確かにクリスは少しだけ顔を離したけれど、唇同士は惜しむように触れ合ったままなのだ。
自分の口とその内部に自由を返してもらった事だし、とりあえず口中に溜まった唾液の混合物をこくりと飲み下す。…唾液って、栄養になるのかしらね。クリスの体液が私の中に入っていくのを感じながらそんな事を考える。栄養にならないまでも水分にはなるか。
どちらにしても最終的には老廃物として排出されるわけだけれど、彼のもので私の命が少しだけ永らえるのならば、実際はそんなに大層な事じゃない事はわかっていても、どうしようもない歓喜を感じる。変態と言われそうな思考ではあるけれど、クリスに嫌われないのなら別にいい。

「…シエナ、何を考えている?」
「んー…」

考えが余所に飛んでいた事を見透かされた。バイロンさんにしてもトーマスにしてもミハエルにしてもそうだけれど、この家族は方向性は違えど洞察力に優れている。
言い訳も言い逃れもしたくはなかったから、純粋な疑問を硝子のように透き通った瞳に浮かべるクリスに素直に答える事にした。

「クリスの唾液、私の中で栄養になるのかしらって」
「…?」
「栄養にならなくても、私の命を多少繋ぐ水分にはなるかしら?」

自分から唇を押し当てては離れ、啄ばむように口付けを交わしながら軽く首を傾げる。
クリスはぱくりと私の下唇に再び食らいつき、すぐに離れて両目を細めて笑った。さらり、さらり、白く細長い指に髪を梳かれる。

「だとしたら、嬉しいな」
「本当?」
「あぁ、私がシエナの糧になれるのなら、これほど嬉しい事はない」
「…あら」

思わずと唇の端を持ち上げた。何だ、変態なのは私だけではないのね。妙な安堵を覚えると同時、柔らかな笑みを浮かべたクリスにまた唇に吸い付かれた。ちろちろと割れた部分を舌先でくすぐられ、身を捩る。
何度かあぐあぐと私の唇を甘噛みして、クリスは名残惜しそうに離れた。ぱく、今度は私の方からクリスの形の良い唇に噛み付いた。勿論甘噛みで。
すぐに離れると、クリスは少し物足りなさそうな顔をしたままだった。クリスの瞳に移る私も似たような表情をしている。

(―――もう、なるようになればいいか)

もう一度クリスにキスをして、今日何度もそうされたように彼の唇を舌でなぞり、迎えるように薄らと開けられたその隙間に舌先を差し入れた。
途端にクリスの生暖かい舌に絡め取られ、吸い上げられる。さっきのそれとは違って、呼吸も奪われるような口付け。緩やかに息苦しさが迫ってくる。けれどそれは不快なものではないというのだから、私は抵抗なんて考えもせずにクリスに身を委ねるのだ。



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