そういう未来があったかもしれない
「よかったのか」

不意に問われて、私は本から顔を上げた。窓に寄りかかって外を見ているカイトと視線が合う事はない。
問いの意味はわかっていたけれど、意地悪く首を傾げて「何の事?」と問いを返す。案の定、カイトは不愉快そうに眉を寄せて私を見た。やっと目が合う。青みがかった灰色。

「…わかっているくせに、そんな事を訊くつもりか」
「わからないから訊いているのよ」
「どうだかな」

カイトが鋭く目を細める。例えば相手がカイトと面識のない臆病な子供だったら泣いたかもしれない。けれど私は、臆病という点では当てはまれど子供ではないし、カイトとそれなりに長く付き合っている身でもある。笑み一つでその視線を流した。

「…クリス…今はXだったか。…あいつと一緒にいなくて、よかったのか」

今度は言葉を足して問いかけられた。カイトの口から出た恋人…否、「元」恋人の名前に、少しだけ心の奥が痛んだ。
本に栞を挟んで閉じた。話はきっと長くなる。開いたままでは本がダメージを受けてしまう。

「今更な質問ね。…いいのよ、あの人達と一緒にいても何もできないもの」
「だがあんたは」
「彼の事なら、今でも愛しているわ。だからこそ…私はあの人達と一緒にいても何もできない」
「…どういう事だ」

カイトの怪訝な視線。私は笑みを浮かべたまま。上手く笑えているのだろうか、彼と会わなくなってから心の底から笑う事がなくなっている気がするけれど。

「…私、復讐したいなんて思った事がないもの。だからあの人達の気持ちが理解できなくて、復讐を止めたいと思ってしまう。でも、私はあの人の邪魔をできないから傍観に徹してしまう。…わかる?」
「…理解できんな。止めたいのなら止めればいい。そんな言い草はただの逃げだ。あんたはあいつから逃げているだけだ」
「そうかもしれないわね。…離れるって言った時、凄く怒られたから」

両目を伏せて、記憶の中、最後に見た彼の表情を思い出す。激して怒鳴る事はなかった。沸点を通り越したかのように、氷のように冷えきった目で私を見ていた。
ただ一言、「それが君の決めた事か」とだけ言った彼は、きっとカイトと同じ事を思っていた。私が彼から逃げるのだと。だから、頷いた私に背を向けた彼は一度だって振り返らなかった。
私はどこまでも臆病な女だ。

「…私はそれでよかった」
「何がだ」
「私があの人を見限った事と、私に見限られたあの人が私を切り捨てた事」

そもそも私が彼の言葉を拒絶しなければ、今の状況にはならなかった。協力する事がなくても、せめて受け入れてさえいれば、私は今も彼の傍にいた。
そんな事がなかったから、私は今カイトの…否、ハートランドとフェイカーの下にいる。彼を拒絶した時にそれでいいと思っていたから、彼の傍にいる事を諦めてしまったから。
不意に足音が聞こえて、はっと両目を開けた。すぐ傍までやってきていたカイトが私の座っているソファの背もたれに両手をつき、その腕の間に私を閉じ込めるように屈んだ。思わず身体を強張らせる。

「つまり、今の状況は貴様の望み通りというわけだ」

カイトが両目を細めて、唇の端を歪めた。身じろぐけれど、逃げ道なんてあるわけがない。ぐっとカイトが顔を寄せる。恐怖が先立って肩を震わせた。
もう少しで唇が触れるというところで、カイトはぴたりと止まった。―――動けない。

「シエナ、貴様は身勝手な女だなぁ…?」

反論しようとした唇は、貪るようにかぶりつかれた。



++++++



目が覚めた。上半身を起こす。寝起き特有の、頭の中が霞がかったような重みはない。代わりに別の重みが頭の中にあった。
ぐるりと周囲を見渡しても、カイトはいない。あの部屋でもない。私が今いるのは広い屋敷の一室で、自室としてあてがわれたこの部屋には誰もいない。
夢だったのに、いろいろと生々しかった。夢の中で私が考えていた事はありえない話ではなかったし、カイトに言われた事は間違いではなかった。
最後に見たカイトの笑みと行動だけは彼らしくなかったけれど―――キスの感触までリアルだった。唇に触れたって、その感触は錯覚としてしか残っていないのだけれど。
ベッドサイドのテーブルに置いた時計を見る。午前2時。眠りについてからあまり時間が経っていない。
もう一度眠る気にはなれない。横になって目を閉じていれば休息は取れるのだからそうすればいいのだけれど、そうしていると夢の内容を思い返してしまいそうだし、よしんば眠れたとしてもまた嫌な夢を見てしまいそうだ。
溜息混じりにベッドから抜け出して、寝巻きのまま部屋を出た。蜂蜜入りのホットミルクでも飲もうと自室を出る。
キッチンへ向かうにはどうしても足を運ぶ事になる広いリビングには最小限の照明がついていて、その事を不思議に思うより早くソファに座った恋人の姿を確認した。

「…クリス?」
「ん? …あぁ、シエナか」

本を読んでいたクリスは栞を挟んで閉じ、ふわりと私に微笑んだ。憑き物が落ちたような顔。全部終わって、トロン…否、バイロンさんが帰ってきて、きっと彼の重荷の大半が消えたからだ。

「どうしたんだ? こんな時間に」
「…夢見が悪くてね。ホットミルクでも入れようと思って」

できるだけ平常の声で言って微笑み、キッチンへ向かう。クリスに夢の内容を話すのは少し気が引けた。きっとクリスは夢の内容に言及してくるから、私はつまり彼から逃げた。まるで夢と同じだ。
自嘲しながらキッチンに辿り着いた瞬間、両手で顔を覆って蹲る。ミルクなんかどうでもよくなってしまった。一番見たかった顔ではあるけれど、一番見たくない顔でもあった。
足音が聞こえて、私の名を慌てたように呼ぶクリスの声が聞こえた。

「シエナ、どうしたんだ」
「…夢見が、悪くて、ね」

さっきと同じ言葉を返して俯く。クリスの顔を見たら、きっと全部言ってしまう。言いたくない、あんな事、絶対に言いたくない。
現実を言えば、私は復讐を目的にする彼ら一家に協力する事はなく、かといってクリスの言葉を拒絶するでもなく、ずっと傍にいた。傍にいただけ。私は傍観者だった。あの夢で私自身が言ったのと同じだった。けれど、だからって、全部が終わった今になって、どうしてあんな夢を。
クリスの手がそっと肩に回された。ぴくりと肩を跳ねさせると、それすら抑え込むように、包み込むように、抱きしめられた。
嬉しくて申し訳なくて幸せで嫌悪を感じて、手の下で涙が溢れた。あっという間に手と顔の縫うように隙間を伝って、べたべたと不快な感触。

「…クリス」
「何だ?」
「もし…もし、よ? …貴方が復讐を決めた時、私が貴方を拒絶していたら…貴方は私を、見捨てたかしら?」

答えなんかわかっているのに、そんな問いを投げた。クリスがひゅっと息を呑む音が聞こえた。
そのまま少しの沈黙が流れて、もう答えなくていい、と言おうとした時、クリスが腕に力を込めた。密着する。

「…そんな事、あるはずがないだろう」
「…!」

たった一言。クリスはそれ以上何も言わない。黙って私を抱きしめている。
私は両手を顔から離して、涙でぐちゃぐちゃになっているであろう顔でクリスを見上げた。ぼやけた視界に青い両目。あぁ、顔を見てしまった。私の密やかな決意というものは、昔から簡単に覆される傾向にあった。今もそれは変わっていないらしい。
今回のこれは反射的なものだとか何だとか言い訳をしても(そんな必要なはいのだけれど)、事実としては変わりがない。
軽い自己嫌悪に陥りながらもじっとクリスの顔を凝視していると、彼は穏やかに微笑んだ。ぼやけていて今一つ判然としないけれど、きっと、私の好きな笑顔を浮かべている。

「例えそうなったとしても、変わらずに君を愛していた」

クリスが私の身体から片手を離してそっと私の髪を梳く。数回それを繰り返した後、指先で袖を手繰り寄せて私の顔を優しく拭いた。驚きで涙は引っ込んでいて、視界が晴れた。
クリスは私の思い浮かべたとおりの顔をしていた。ふわりと微笑んで、私を安心させるように両目を細めている。

「…そう」

クリスの肩口に顔を埋める。クリスが優しく頭を撫でてくれる。質問攻めにあうぐらいの気持ちでいたけれど、予想に反して彼は何も言わずにそうしていてくれた。
悪夢、ではなかったけれど、決していい夢ではなかった。というか、悪夢以上に嫌な夢とでも言えた。だからだろうか、何も言いたくはない。
いつになったら話せるのかしら、なんて、他人事のように思いながらクリスの服をきゅっと掴み、目を伏せた。



(嫌な夢や圧倒的な恐怖の記憶というのはしばらく話せないものなのだそうです)



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