その理由はいかに
あまりにも突然の事で、然るべき場所には行けなかった。本当に唐突に、何の前触れもなく、胃の中身が逆流してきたのだ。
Wは片手で口を押さえてキッチンに飛び込み、醜い呻き声と共にシンクにそれらを吐き出した。数時間前の食事は消化しきれていないようで、噛み砕いた事で原形を失っても何を食べたかがわかる程度には容貌を留めていた。
胃液や食道の粘液の匂いに食べ物そのものの匂いも僅かに混じっていて、そこで初めて列記とした吐き気を催した。顔を顰め、胃の辺りを掴むようにしながら片手で蛇口を捻り、水を出す。
「…誰か、いるの?」
物音か吐き出している声か、どちらを聞いたのか、シエナの声がした。Wは答えるでもなく顔を上げるでもなく、顔を伏せたまま胃液混じりに嘔吐し続ける。
ひゅっと息を呑む音が聞こえて、しかし彼女は慌てた様子もなく緩慢な歩調でWに歩み寄ると白い手でゆっくりとWの背中を擦り始めた。
「…う……ッ、ぐ…うぇ…!!」
「………」
胃の中身が全てなくなって、それでもWの吐き気は収まらなかった。黄色がかった胃液ばかりが吐き出される。酸性を帯びたその液体から守るための防衛本能から大量に分泌された唾液と混ざり合い、口の中で粘度が増す。
それらは元より、歪んだWの顔も見ていて心地の良いものではないだろうに、シエナは心配そうに眉を下げるだけで何も言わずに背中を擦り続けている。
どうにかこうにか、嘔吐する事はなくなった。…厳密に言えば、尋常ではない吐き気に吐瀉自体が追いつかなくなっていた。
「……っは…」
「…はい」
何枚かまとめられたティッシュが差し出された。震える手でそれを受け取り、唾液と胃液と吐瀉物で汚れた口を掴むように拭いた。
両目を伏せてずるずると座り込むと、傍らにぺたりと座ったシエナが優しい手つきで背を撫で始めた。
「身体、だるい?」
ゆるゆると首を横に振る。何度も胃液の通った喉がいがいがとねばついて、声を出す気にはなれなかった。
シエナはそれを理解しているようで、否定か肯定かで答えられるような質問をもう一つ投げてきた。
「吐き気は朝からあった?」
もう一度首を横に振る。そう、とだけ答えが返ってくる。
「ご飯は、美味しくなかった?」
それも否定を返した。シエナの料理が美味でなかった事は、記憶している限りではない。
少しだけ安堵したような吐息が聞こえたが、Wがそれに反応する事はなかった。
「…お水、いる? 飲まなくても、口の中をすすぐだけで気分がよくなると思うけれど」
こくり、小さく頷いた。シエナが立ち上がり、ずっと響いていた水音が何度か動いた後、数秒途切れた。そういえば、水道の水は出しっぱなしだった。
きゅっと蛇口を捻る音がして、水音が消える。そして、シエナのほっそりとした手が差し伸べられた。
「ほら、立って」
「………」
力なくその手を取ると、ぐっと握り返したシエナが非力なりに力強くWを引き起こした。再び吐瀉物と対面するような気がして背筋に悪寒が走ったが、どうやらコップに水を注ぐ前にシエナに流されたようで、微かに不快な匂いが残っている程度だった。
はい、と差し出された水の入ったコップを受け取る。ゆっくりと口に含んですすいで、ぺしゃ、吐き出す。それを何度か繰り返すと、確かに少しだけ気分がよくなった。
「……はぁ」
空になったコップを置いて縁に手をつき、ぐったりと屈みながら溜息を吐いた。ぽふぽふ、傍らに屈んだシエナに背を撫でられる。そういえばさっきも撫でられていたが、気にならなかった。むしろ心地良い。
「今日は嫌がらないのね。いつもなら払われるのに」
悪戯っぽい声音が彼女なりの気遣いらしいというのは、突然の事に混乱したままの頭でもわかった。吐き出した物の映像は脳裏に焼きついてしまっていて、ぐるぐると掻き乱されたWの思考を更に乱している。
普段は照れ臭くて払いのけてしまうシエナの気遣いを拒まなかったのは、もしかしたらそのせいかもしれない。
「心当たりはないのよね」
「?」
唐突に話が変わって更に混乱したが、すぐに先程の事だと気付いて頷く。シエナは眉尻を下げ、考えるように首を傾げた。
「…W」
「…何だよ」
初めて返事をした。グロッキーな気分のせいで、いつもより遥かに低い、しかし力のない声音だった。
シエナは優しくWの頭を撫でながら、その顔を覗き込んだ。
「今日、雑誌の取材があると言っていたわね? お休みしなさい」
しれっと放たれた言葉に、Wは思わずシエナに視線をやる。
「あ…?」
「そんな顔で人前に出るつもり?」
ぺたり、白い手がWの頬に触れた。そんな顔、と言われても、Wは自分が具体的にどのような顔をしているのかわからない。
そんなWの感情を汲み取ったようにシエナは微苦笑して、「酷い顔よ」と言った。
「いかにも病人です、って雰囲気。顔色も真っ青だし。…せめて今日ぐらいはお休みして」
「…けど、よ」
「自分の身体を労わりなさい」
声音こそ穏やかだったが、有無を言わせない物言いだった。ぐ、と言葉に詰まる。
素直に「わかった」と言えばよかったのに、Wは無言のままにぷいと視線を逸らした。
その裏に押し隠された肯定を汲み取ったシエナは軽く笑い、Wの頬を撫でた。
「頑張るのはいいけれど、頑張りすぎはよくないわ。…部屋に戻りなさいな」
最後の一言の羽毛のように柔らかな声が心地良かった。軽く両目を伏せる。
少しだけ、甘えたい気持ちがあった。
「…シエナねーちゃん」
ぽつり、まだ隣にいるであろう彼女を呼ぶ。もう何年も呼んでいなかった呼称は、驚くほどすんなりと口から零れた。
あら、と声が聞こえて、顔を上げれば軽く眼を丸めて口元を指で押さえるシエナと目が合った。少しすれば嬉しそうにその表情が綻んだ。
「何かしら」
「…ねーちゃん」
もう一度、呼ぶ。質問の答えにはなっていなかったが、シエナは嫌な顔を見せる事はなく、むしろ穏やかに微笑んだまま小首を傾げた。
「…一緒に部屋に行きましょうか?」
「…ん」
答えの代わりに手を伸ばせば、シエナはまた嬉しそうに微笑んでその手を取り、Wを立たせた。
「…ねーちゃん、なんか、嬉しそうだな」
その表情をぼんやりと眺めていると、そんな言葉が零れた。Wの手を離したシエナはころころと笑って「顔に出ていたかしら」と言った。
「そうね、嬉しいわ。貴方が甘えてくれる事は、めっきりなくなっていたから」
「…ねーちゃん、甘えてほしいのか?」
「さぁ?」
悪戯っぽく笑ったシエナに瞬いている間に彼女は歩き出していて、Wも重い身体を引きずるようについていく。屋敷は些か無駄だと思えるほどに広く、キッチンからWの自室までは少しばかり距離があるため、気分も少し重かった。
シエナは時折Wに視線をやっては顔色を確認するように双眸を細める。そんなに何度も見なくても大丈夫だと告げれば少しつまらなさそうな顔をされた。
「…甘えてほしいわ」
Wの部屋が見えてきた時、ぽつん、とシエナがそう言った。今度はWから視線をくれると、シエナは困ったように微苦笑していた。
「だってW、この何年か私を姉とは呼んでくれなかったでしょう? これでも寂しかったのよ、私」
そんな事を言われて、「ねーちゃん」と呼ぶに留めていたはずの甘えたい気持ちが膨れ上がった。
あまりにWらしくない感情で、彼自身もそれをわかってはいたが、押さえ込む暇もなくその感情はWの口を動かす。
「…なら、今、甘えてもいいのか」
シエナが再びきょとんと目を丸めた。他の家族がいればからかわれただろうな、と思いながら、視線を逸らす。部屋が近い。
遅れること数秒、シエナのひっそりとした笑い声が耳に入った。
「…私にできる事なら、何なりと言って頂戴」
「…じゃ、おれがねるまで、へやにいてくれ」
「えぇ、いいわよ」
シエナは間髪いれずに頷いたが、他意が全くないとは言え彼女を部屋に連れ込んだと知られれば兄にあれこれ言われそうだとWは思った。