それは慣れではないのです
エルダはオレを、鬼柳さん、と呼ぶ。実のところ、オレはそれが気に入らない。
名字で呼ばれる事自体は慣れている。遊星、ジャック、クロウもそうだが、オレを「兄ちゃん」と呼ぶウエストやその姉のニコだってオレを名字で呼ぶ。
オレがこの数年(もしかしたらもっと昔から)の間で京介と呼ばれたのは、フルネームで呼ばれた時ぐらいしかない。
その中でもエルダは、初めてオレの名前を知った時以外は京介と口に出した事はない。「鬼柳京介さんですね、鬼柳さんでいいですか?」と飄々とした表情で言っただけだ。それ以来、あいつがオレの事を下の名前で呼んだ記憶はない。
街を開放して、あいつがこの街で医者として診療所を開いて、確かそれと同時ぐらいに付き合い始めた。オレの事が好きだと珍しく真っ赤になって告げてきたエルダの表情は忘れていない。
それはさておき、あいつはオレと付き合い出してからも、ただの一度だってオレを「京介」とは呼んでいない。街を開放する時に顔を合わせた程度の遊星の事は「遊星さん」と呼ぶのに、だ。
オレが嫌なのは名字で呼ばれる事そのものではない。いや、ひいてはそうなのかもしれないが、「エルダが」名字で呼ぶというのが気に入らない。
何かしら理由でもあるのかと思い、一度訊いてみた事がある。返答は至って素っ気無いものだった。

「こちらの方が呼び慣れていますから」

語調も声音も表情も、淡々とすらしていた。オレは何となく落胆した。
結婚…は、するのかどうかわからないが、それに近い状態(同棲とか? …それぐらいならありえそうだ)になったとして、その後もあいつはオレを「鬼柳さん」と呼ぶのだろうか。
女々しいと言われたらそれまでだが、嫌なものは嫌だった。…恋人なのに、と思わないでもない。
というわけで―――オレはエルダを壁に追い詰め、彼女の顔の両脇に手を押し当てて逃がさないようにしている。エルダは訝しげにオレを見つめている。危機感はないのか、コイツ。

「…鬼柳さん?」

オレに問いかける声が少し震えていた。何回かぶっ倒れたり押しかけたり抱きしめたりといろいろしているうちに気付いた事だが、エルダは落ち着きを保とうとしている時は必ず声が震える。それも、ほとんどわからないレベルで。
ちなみに前にも同じような事をしてみた事がある。その時は溜息を吐かれた挙句「さっさと離れて下さい」と言われたため、相応の仕置きをしておいた。内容は…まぁいい。
その時の記憶があるのか、それともオレの様子がエルダから見ておかしいのか、エルダはずっと怪訝な表情でオレを見ている。

「…名前」
「は」
「京介、って呼べよ」
「………」

エルダは目を真ん丸く見開いて、すぐにさっと俯いた。その直前、顔がほんのり紅く染まったのが見えた。
何で照れる必要があるんだよ、とエルダの顎を捉え、少し無理矢理ではあったが視線を合わさせた。狼狽しきったエルダは目を右往左往させている。

「ほら早く」
「や、でも、あの」
「名字の方が慣れてるとか言ったら前と同じ事するぜ」
「……っ」

かあっ、とみるみるうちにエルダの顔が真っ赤になる。茹蛸、と言うと響きが悪いが、まぁそんな感じ。可愛く言えば林檎か?

「き……、…きりゅ…」
「だから」

名字で呼ぶんじゃねぇ。と鋭く言う。エルダがびくりと肩を震わせる。思った以上に鋭い、というか不機嫌な声になってしまった。実際少しばかり臍を曲げはしたが、怯えさせるつもりはなかったのに。
そうは言っても、エルダが怯えたのは事実だ。怖いもの知らずな態度が目立つこいつにも恐怖とかあったらしい、不謹慎だが少し安心する。

「…どうしていつも名字で呼ぶんだ?」

以前もした問いをもう一度投げる。エルダは困ったように眉を下げ、視線を逸らした。オレは心中で舌打ちする。
何だよ、いつもはオレの質問にすぐ答えるくせに、何で今は目ぇ逸らすんだよ。

「…なぁ、エルダ」
「………」

追い討ちをかけるように迫れば、エルダは視線を逸らすどころか瞼をきつく閉じた。
溜息を吐いて壁とエルダの顎から手を離し、距離を取る。こりゃ名前で呼ばれるのは諦めた方がいいかもしれねぇな。
解放されたエルダは小さく震えながらへたり込んで俯いてしまった。…思った以上に追い詰めていたらしい。

「………です」
「は?」

突如蚊の鳴くような声でエルダが何か言った。当然聞き取れない。
今度はオレが怪訝な顔をする番だった。眉を寄せて聞き返せば、エルダは俯いたまま少しだけ声を荒げた。

「呼びたいのに、恥ずかしいんです…!」

呆気に取られる。おいおい、恥ずかしいって、名前呼ぶだけだろ。何でだよ。
疑問を口にするより早く、やはり俯いたままのエルダは捲くし立てるように言い訳じみた言葉を零していく。

「鬼柳さんの名前を呼ぼうと思うと何故か恥ずかしくて、呼びたいのに、何度も呼ぼうと思ったのに、いつも気付けば鬼柳さんって言ってしまうんです、本当は呼び慣れてるとかそんなんじゃなくて、その…あの…つまり、…えっと」

早口言葉みてぇに流れていた言葉は突然歯切れが悪くなって、口を噤んだりもごもごと呻いたりしたエルダはしまいにはわけのわからない事を叫びながら頭を抱えてぐしゃぐしゃと髪を掻き乱し始めた。相当慌てているらしい。面白い。
いや、それはさておき、本当は呼びたいのに恥ずかしいってどういう事だよ。肝心な答えが得られてねぇ。

「…何がそんな恥ずかしいんだよ。たかが名前呼ぶ程度だろ」
「…それがわかれば…苦労、しませんっ…」

乱れた髪はそのままに、頭を抱えたエルダは震える声でそう言った。…どうにも、らしくない。そうさせたのはオレだが。
空けていた距離を詰めて屈み、エルダの顔を覗き込む。細い腕や髪の下から見えたエルダの顔はやはり真っ赤だ。
手を頭から離させて、ぐしゃぐしゃになった髪を梳く。女の髪なんて梳いた事がないから、世辞でもその手つきを高評価する事はできない。
騙し騙しエルダの髪を整えながら、じ、とその目を見る。気恥ずかしそうにしながらエルダもオレを見返してくる、ただそれだけの事だが、何しろ明確な拒絶を向けられた直後だ。かなり嬉しい。

「…呼びたいんだよな」
「…はい」
「なら、今はそれでいい」

えっとエルダが目を見開いた。オレは少しだけ、本当に少しだけ、眉を寄せた。

「今は、だぜ? そんなんで満足できるはずねぇからな。…オレも、お前も」
「………」
「わざとじゃねぇってわかっただけで、よしとするさ」

ある程度整えたエルダの頭を一度撫でてその手を取り、立ち上がる。オレに手を握られたままのエルダも必然的に立ち上がる事になった。
何を思ってかエルダは少しだけ両目を揺らしたが、オレはそのまま手を離し、数歩離れた。

「あ…鬼柳さん、ちょっと」
「え、うわ」

控えめな声とは裏腹に力強く服の裾を引っ張られ、バランスを崩した。どん、と壁についた両手がまたエルダを閉じ込めるような位置に来た。エルダは今度は微動だにしなかった。
何だか複雑な気分になるオレに気付いているのかいないのか、エルダはじっと真直ぐオレを見据えてくる。

「…きちんと名前で呼べるように、頑張ります。だから…愛想は尽かさないで下さい」

さっきまで頭を掻き乱していたのが嘘のような、いつもの飄々とした声音でそう言われた。
最後の一言ぐらい照れたり不安がったりしてくれてもいいのにと思うが、まぁオレが積極的に手を出したわけでもねぇからしょうがねぇ、のか。
それよりも言われた言葉の方が嬉しくて、唇の端が上がっていくのを感じた。

「…あぁ。だが、オレはあんまり気の長い方じゃねぇからな。急げよ」
「……は、い」

あ、今焦ったな。声が震えたし、顔が赤くなった。
その表情が可愛かったから、声と同じように少しだけ震えている唇にオレのそれを押し付けておいた。



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