熱とは恐ろしいもの
雲一つない夏のある日、サティスファクションタウンはじりじりと暑い。この日差しにはとても忌まわしいものを感じる。
そんな中、私はこの街を取りまとめる人を探すために日傘を差して歩いているのだが…あの人はどこに行ったのだろう。早く見つけて帰りたい。
ハンカチを診療所に忘れてきた事を思い出して溜息混じりに袖で汗を拭った直後、目的の姿が見えた。この時期に黒のロングコート、なんて頭のおかしい(と言ったら怒られるだろう)格好をしているのは彼しかいない。

「…鬼柳さん!」

日差しを受けるごとに募っていく苛立ちを混じらせた声をかける。別にそうしようとしたわけではないのだけれど、私は自分で思う以上に苛々しているらしかった。だがしかし彼、鬼柳京介は振り返らない。
聞こえていないはずないのに、と思って眉を寄せ、もう一度声を投げた。

「鬼柳さん?」
「―――……エルダ…?」

酷くゆっくりと、長い銀髪とコートの裾が揺れて、鬼柳さんが振り返った。ぼうっとした表情で私の名前を呼んだかと思えば、やはり酷くゆっくりと瞬く。様子がおかしい。
私は鬼柳さんに駆け寄った。…白い顔が真っ赤になっていて、この暑いのに汗をかいていなくて、目の焦点が合っていない。

「…大丈夫ですか?」
「……あー…」

彼らしからぬかそけき声で、呻くような相槌を一つ。更に眉根が寄るのを自覚しながら、日傘を持っていない方の手で鬼柳さんの頬に触れた。…熱い。
私は彼の様子と声音から、一つの結論を弾き出した。―――この人、熱中症だ。
汗はかいていないのではなくて、恐らくそれだけの水分が身体から失われているのだろう。必然的に、彼の体温は上がっている。

「鬼柳さん」
「………」
「来て下さい」

鬼柳さんの手首をコートの袖ごと掴み、ぐいっと引っ張る。僅かによろめきながらもついてくる彼の腕、というか袖は尋常ではなく熱くて、一体いつからこんな格好で外に出ていたのだろうと呆れる。
彼の家より近いから、と私の診療所に引き込み、冷房をかけた。その後、鬼柳さんを個室の簡素なベッドに座らせて顔を覗き込む。

「鬼柳さん、ちょっと待ってて下さい。手当てします」
「…だいじょーぶだ」
「どの面下げて言いますか。出て行こうとしたら往復ビンタですよ」

言いながら睨み据え、鬼柳さんがむっつりと唇を尖らせながらもばふっと横になったのを確認する。そして鬼柳さんを置いて個室を出て、冷蔵庫に向かうと扉を開けた。スポーツドリンクは…ないか。
仕方なくコップに冷たい水を注ぎ、その中に塩を少し入れてストローでかき混ぜ、氷を数個放り込んだ。続いて氷嚢を―――と思ったが、あの状態では急を要する。そう判断して氷嚢は作らず、手近なタオルを濡らして冷凍庫にぶち込んでから水を持って一度居間へ戻った。

「鬼柳さん。お水です」
「……ん」
「…早く飲んで下さい」

ずいっとコップを突き出すと、鬼柳さんはのろのろと手を持ち上げてコップを持ち水を飲んだ。途端、鬼柳さんの眉がぎゅっと寄る。

「何だ、これ…しょっぺぇ…」
「塩を入れてあるので」
「…しお…?」
「汗をかいた時は、真水よりこっちの方がいいんです。血が薄くなって、身体が水分を欲さなくなるので」

まぁでも、塩の入った水はお世辞にも美味しいとは言えない。濃度を間違えると脱水症状も起こしてしまうし、面倒なところ。
何でこんな時に限ってスポーツドリンクがないんだろう、と悔やんでいると、鬼柳さんがぷいっとそっぽを向いて、ぽつんと一言。

「……もう、いらねぇ」
「駄目です、全部飲んで下さい」

そう言うと、鬼柳さんの眉が思い切り寄って綺麗な顔が歪んだ。とはいえ、今の状態でそんな表情をされても駄々をこねる子供にしか見えない。
「鬼柳さん」と咎めるように言えば、長い前髪の隙間から金の目がこちらを睨んできた。

「睨んでも駄目です。氷嚢を用意するまでにちゃんと飲んでおいて下さい。あと、その暑苦しいコート脱いで下さい」

一方的に言い置いた私は、さっさと氷嚢を用意するべく立ち上がった。
氷嚢用の袋を棚から引っ張り出し、5つの氷嚢を作ると少しばかり重い上にとても冷たいが全部抱えて居間に戻った。
鬼柳さんは私に言われたとおりコートを脱いで、超うす塩味の水をずるずると飲み終えるところだった。とても嫌そうに。
そして氷嚢を抱えた私を見ると、ぱちっ、と驚いたように瞬いた。

「氷嚢を置くので横になって下さい」
「…ん」

今度は割と素直に言う事を聞いてくれた。あ、少し顔の赤みが引いてる。少しだけ。よかった。

「冷たいですけど我慢して下さいね」
「…あぁ」

鬼柳さんがのそりと頷いたのを確認してサイドテーブルに氷嚢を置き、まず2つを内腿に滑り込ませた。
一瞬鬼柳さんが顔を顰めたけれど、無視だ無視。気にしてたら手当てなんかできない。

「腕、ちょっと失礼します」
「…そんなトコにも、っ…置くのかよ」

両方の脇の下に氷嚢を置くと、流石に心臓に近いとあってか鬼柳さんははっきりと顔を顰めた。はい、と頷いて最後の氷嚢を摘み上げる。

「太い血管が通っている所に当てないといけないんです。はい、これで最後」

鬼柳さんの長い前髪をどけて額を出し、その上にぽんと氷嚢を置いた。

「エルダ、これ…つめてぇ」
「氷嚢ですもの」

しれっとそう言って立ち上がろうとすると、がし、と鬼柳さんの真っ白い手に服の裾を掴まれた。
体勢を崩しそうになって、慌ててベッドに手をついた。そうすると、まぁ、何だ。…鬼柳さんを押し倒した…ような体勢、になった。

「ちょっ…鬼柳さん! 危ないですよいきなり…!」
「…いてくれ」

彼はぼそぼそとした細い声でそう言った。悪びれもしない声音と表情はいつもの事。
いつもと違うのは命令的とも取れる口調ではなく縋るようなそれであった事。
…どうにか思わないようにしてたけど…可愛い。
いてあげたい気持ちが急上昇するも、それを振り払ってそぉっと身体を離し、ぺた、と鬼柳さんの頬に触れた。

「もうちょっとだけ待ってて下さい」
「どれぐらい…?」
「え、っと…1分」
「……わかった」

多少渋ってはいたけれど、鬼柳さんはゆるりと手を離してくれた。ごめんなさい、と一言断って立ち去る。
冷凍庫からは中途半端に凍りかけた濡れタオルを、冷蔵庫からは水の入ったボトルを取り出し、新しいコップを棚から出してボトルに被せ、居間に戻った。

「戻りました」
「……ん」

相槌を打つ鬼柳さんを尻目に2つのコップをサイドテーブルに置き、濡れタオルだけ摘む。

「首に濡れタオル巻きますね」
「っ…!」

さすがに首に0度近い物体を乗せるのは堪えたようで、鬼柳さんは眉を寄せて身を捩った。そんな態度も、なんだか子供のようで…可愛い。
少し経てば若干慣れたらしく、鬼柳さんはふぅっと緩く息を吐いた。

「…あとはお水飲んで下さい。最低でもあとコップ3杯」
「…口移しで?」
「………」

一発ぐらい殴ってやろうかと思ったが、弱っている人にそんな事をするわけにもいかない。

「……ちゃんと起きて飲んで下さい」
「…ちっ」

舌打ちされた。あからさまに苛立ったような、残念そうな、そんな表情で。
溜息が零れそうなのを堪えて、氷が残った鬼柳さんのコップと今し方持ってきたコップに水を注いだ。連れてきた時よりは元気そうだけど、油断大敵だ。

「起きられます?」
「…しんどい」
「………」

答えになっていないけれど恐らく起きられないのだろう。熱中症って辛いものね。うん。

「少し待ってて下さい」
「やだ。さっきも待った」
「我侭言わない」

ぺちっと軽く頬を叩いて(当然彼が痛がるような強さではない)、席を立つ。確かどこかにストロー付きのボトルがあったな、と自分の住居スペースに移動して台所を引っ掻き回す。あった。
文句を言われては適わないのでざっと中を洗ってさっさと鬼柳さんの所へ戻る。

「何だそれ」
「ボトルです。これにお水を入れます」
「………」

何か凄く残念そうな顔をされた気がするけれど気のせいだ。気のせいに違いない。
ちょっと不機嫌になった鬼柳さんを無視してコップから水を移し替える。

「どうぞ」

むすっとしながらも鬼柳さんはストローに口をつけ、ずるずると水を啜った。2割ほど啜って口を離し、一言。

「エルダ…眠い」
「寝ても構いませんけれど…点滴に切り替えます」
「は? 何だよそれ、点滴とか痛ぇじゃねぇか」
「私は針を刺すのが上手いので大丈夫です」

私自身も水を飲みながらしれっと、しかし冗談交じりに答えて差し上げる。注射にしても点滴にしても確かに痛いけれど、上手い人が刺せばそんなに痛くない。そして私は針を刺すのが上手い。…らしい。研修医時代に言われた事だから今がどうかは知らないけれど。

「…どっちにしても痛そうだぜ」
「お嫌なら起きていて下さい。せめてお水を全部飲んでからにして下さい」
「…ちっ」

また舌打ちをされた。さっきから彼の機嫌を損ねてばかりのような気がする。別にいいのだけれど、このままいられては私も居心地が悪い。
心中で溜息を吐いて、水を口に含むとそのまま鬼柳さんの口を塞いだ。驚いている鬼柳さんの口に水を流し込んで、彼がそれを嚥下したのを確認して唇を離す。

「…これで少しは満足してくれましたか」

恥ずかしくてしょうがないので顔を背けて水を飲む。恋人だし別にやましい事はしていないのに、多分これは全体的に鬼柳さんが悪い。
羞恥のやり場を鬼柳さんに設定して心中でぐちぐちと呟く。そうしないとやってられない。
しばらくしてごろごろとくぐもった音がして、何事かと視線を向けた。同時に名前を呼ばれる。

「エルダ」
「は、い…っ!?」

掠める程度に唇を攫われた。さっきの音は氷嚢を置いた音らしい。顔が赤くなるのを感じた。

「これでおあいこだ。…満足、したぜ?」

にっと笑った鬼柳さんは私の頭をわしわしと撫でて横になり、ふっと目を伏せた。
放置された氷嚢と、彼が身体を起こした時に落ちたのだろう濡れタオルが役目を果たせなくなっている。
けれど私はそれに手を伸ばす事すらできず、サイドテーブルに突っ伏した。



(…ご自分の顔と声がとっても綺麗だって事、自覚して下さい)
(知らねーよ)
(っ!? …寝てたんじゃないの)
(目ぇ閉じただけ)



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -