自己紹介。
その日も鬼柳は薬司姫の屋敷に赴いた。いつになれば彼女は態度を軟化させてくれるのだろうとやきもきする気持ちと、あのつんけんした態度をもう少しでも見ていたい気持ちと、それらで板挟みになるのは何とも歯痒く心地よい。
とはいえ、だ。不満があるとすれば彼女が己の感情について自覚していない、あるいは自覚しているにしてもあまりにも認めたがらない事だけだ。そのお陰で鬼柳はよく言えば足繁く、悪く言えばしつこく、彼女の屋敷に通い詰める事ができている。今宵で九十九夜だ。彼女はどこぞの姫君ではないのに、百夜通いを達成しそうである。
さて今日の薬司姫のご機嫌は如何か、と彼女の部屋の前に立った鬼柳はいつものようにへろりと笑いながら口を開いた。

「よう、薬司姫」
「あぁ…いらっしゃい」
「―――は?」

思いもかけずかけられた、出迎えの言葉。今までは「またですか」「性懲りもなく」と散々な調子だったのに。態度の軟化を望んでいたとはいえ、心の準備ができていなかったらしい。鬼柳はぽかんと間抜けにも口を半開きにして、その場に立ち尽くした。いつもならすぐに上げられる御簾が、今日に限って上がらない。女性にしては無骨な指先が覗く事さえ、ない。

「…何突っ立ってんですか。さっさと入ればいいのに」
「…あ、あぁ―――おう」

先の言葉は幻聴だったのだろうかと思うほど淡々とした、いつもの声。しかし微かに震えている。我に返って、鬼柳は御簾を上げた。出会った頃よりいくらか髪の伸びた薬司姫が、いつものように雑然とした部屋の中で憮然とした面持ちで座っていた。

「…これだけ通ってもらってずっと蔑ろにしたままなのは不実ですね」

憮然としたまま、薬司姫は呻くように呟いた。蔑ろ。不実。何がだろう。確かに憎まれ口こそ叩くが、彼女が鬼柳を拒んだのは最初の一日目、言葉を交わす前だけだ。彼女の評判を知る鬼柳にしてみれば蔑ろにされた記憶はない。むしろ彼女は至って正直に自分の気持ちを語り、疑念があればそれをぶつけ、喜べば素直ではないがやはり正直にそれを表した。これで蔑ろにされたとは言えないと鬼柳は思うし、だから彼女を不実な女だと思った事もないのに。
首を傾げた鬼柳に対し、薬司姫はすっと吐息した。眉間に皺が寄る。元々きつめの顔立ちをしている彼女だから、その顔を顰めれば更に険しい顔つきになる。それさえも愛おしく思えるのは、所謂「惚れた弱み」というやつか。

「…貴方は今でも最初と同じ事言えますか」
「最初…? あぁ、お前に惚れたとか可愛いとか?」
「か…わいいかどうかはさておき、前者」
「当たり前だ。両方、な」

間を置かずに頷けば、彼女は一度口を開いてすぐに閉じた。それから鬼柳から視線を逸らし、何とも言えない表情をする。唇を噛んでいるのが暗がりにも見えたのは、夜を不得手としない鴉の性質があってこそだ。

「…貴方が私の所に通ったって得はないでしょう。地位はさておき、こんなのを娶ったとあったら評判が悪くなるんじゃないですか」
「かもなぁ。まぁそれでお前と一緒にいられるなら安いだろ」
「…ほんっとに変わってますね」
「この出自だ。いちいちそんな事を気にしてたら身がもたねぇよ」
「あぁそうですか」

不意に。戻された視線と共にすっと伸びた薬司姫の指先が、鬼柳の衣の襟元を掴んだ。そのままぐいと引き寄せられ、情けない悲鳴こそ上げなかったものの鬼柳は大いに驚く。今までになく、近い。

「―――一度しか言わないのでよく聞いて下さい。あと私は和歌が苦手なのでこのまま言葉でお伝えします」
「お、おう」
「私の名前はエルダです。そう呼んで下さい」
「!!」

ぱっと鬼柳が顔を輝かせたと同時、どん、と盛大に突き放された。慌てながらもその場に手をつく事で座っていながら転ぶという醜態を晒さずに済んだ鬼柳は、薬司姫の顔が紅葉のように真っ赤になっているのを見た。同時に熱に敏感な器官が彼女の体温の上昇を告げる。

「今のって」
「…もう言いませんからね」
「あぁ…、……あぁ、わかってる」

相も変わらず、正直なくせに素直ではない。名前を告げる事で気持ちを表すのが、彼女の最大限の譲歩だったのだろう。鬼柳は喜色に頬を緩ませ、よいしょ、と座り直した。

「鬼柳京介だ」
「鬼柳…京介、さん」
「おう。…これからよろしくな? エルダ」
「………」

はくはくと幾度か口を開閉させた薬司姫―――もとい、エルダは口元を押さえ、こっくりと頷いた。まだ体温は高い。
あぁもう可愛いな―――と鬼柳は腕を伸ばし、エルダをぎゅむりと抱きしめた。面白いほどに硬直した彼女はほんの一瞬身じろいで、それから全てを諦めたように脱力した。聞き分けが良い。

「…あの、ところで」
「ん? 何だよまだ何かあるのか?」
「さっきも言いましたけど私を娶るとなるといろいろ面倒だと思います。名乗った後でこんな事言うのも変ですけど…いいんですか?」
「あぁ、それな。お前と一緒にいられるなら安いもんだ」
「…あぁもう、そういう事をさらっと言う」
「本心だからな」

鬼柳がくつりと笑って腕の力を強めれば、エルダは更に脱力して鬼柳に全体重を乗せる。女にしては高めの背と単衣の重みを考えても、これを支えるにはなかなかに力が要る。それを言えば殴られるだろうとはわかっていたので何も言わず、代わりに鬼柳はエルダの背を軽く叩きながらその耳に唇を寄せた。

「好きだぜ、エルダ」
「っうぐ…」

髪から微かに覗く耳朶が見る間に紅潮する。再びエルダの身が硬直する。その反応が面白くてくつくつと笑っていると、ぽん、と突き飛ばされるようにして身体を引き剥がされた。
かと思えばそれに驚く間もなく荒々しく顔を掴まれ―――唇に、柔らかい感触。視界一杯に、真っ赤になったエルダの顔。

「……私も好きです。京介さん。…妾なんか持ったらぶっ飛ばしますよ」

唇を離したエルダの睦言の、物騒な事。女人たるものかくあるべしという像を全力でぶち壊すような言葉だ。そして微かに震えた手で鬼柳の顔を固定したままの彼女は、きっと有言実行するのだろう。
上等、と鬼柳は唇の端を上げた。彼女に言われずとも妾を持つ気はなかった。髪が短く、同様に気も短く、色気洒落気などとは程遠く、香には興味さえなく、和歌を詠めず、琴の演奏もままならず、恐らく自分よりも知識があり、可愛げのある自覚のない彼女だから、鬼柳は惹かれたのだ。きっと似たような女がいたって、心は動かないだろう。

「お前もな? 他の男が言い寄ろうとしても相手すんなよ」
「しません。してません。…当たり前な事を言わないで下さい」
「お互い様だ」

く、と笑って、固定されたままの顔を近づける。こつりと額を合わせれば、ぞろりと半端に視界を遮る銀髪の向こうでエルダが目を細めたのがわかった。
それが初めて見る彼女の笑みだと気付くのにはあと数秒を要する。



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