逢魔が刻
翌日、幸いにして鬼柳は急な用事が入るでもなく、目的の時間よりやや早めに薬司姫の邸宅に着いた。
ざわざわと身体の内側が違和感を訴えるのを宥めながら、この二日間と同じように彼女の部屋に向かう。彼女のためでもなければさっさと自宅に帰って残りの時間をやり過ごしてしまいたいところだったが、自分から言い出した約束だ。約束、とは言っても酷く一方的なものだったが、鬼柳は嘘をつくのを厭う気性だった。

「薬司姫」
「…は?」

御簾越しに声をかけると、素っ頓狂な声が聞こえた。そうしてざらりと、普段よりやや荒々しく、御簾が持ち上がる。声と同じく呆気に取られたような表情の想い人が、鬼柳の姿をその目に捉えて珍妙な顔をした。

「…いつもより早くありませんか」
「これぐらいの時間でないと信用させられねぇからな」
「信用? …とにかく入って下さい」
「おう」

常の冷淡ともとれる表情を取り戻した薬司姫に招かれ、鬼柳は部屋に上がった。そうして昨日と同じように、散乱した書物を退けて適当なところに座る。薬司姫が微かに不快そうな表情をするところも、昨日と同じだった。
ざわざわとした違和感は肥大するばかりだ。様々な条件の揃っている今日は特にその違和感が酷く、この違和感自体は毎日の事とはいえ鬼柳は微かな苛立ちを覚えていた。
それを察したのだろうか、薬司姫は真っ直ぐに鬼柳の顔を見据えた後、微かに首を傾げて口を開いた。

「…具合、悪いんですか」
「…ん? 何故そう思う」
「質問してるのは私です。質問を返さないで下さい」
「……ふ、ははは」

相も変わらず、刺々しい態度だ。初対面の時こそ驚いたが、今ではそれまで感じていた苛立ちを即座に忘れてしまうほどの楽しさを感じる。

「そうだな、悪かった。…別に具合が悪いわけじゃねぇんだ。昨日言った事だよ」
「昨日…って、あぁ、貴方の事を一つ教えて下さるっていう」
「そう、それだ。―――さて、オレは質問に答えたんだ。お前も答えてくれるよな?」
「あぁ、はい。いつもより動きがぎこちなかったのと、何か堪えているような顔をなさってたので、そうじゃないかと思ったんです。…答えを聞く限り、違ったみたいですけど」
「いや、あながち間違いじゃねぇよ、それ」

あながち―――どころか、ほぼ正解だ。どうしてもこの時間帯は動きが鈍るし、違和感は少なくとも二刻は続く。もうそろそろその違和感が抜ける頃合ではあるから不調と言えるほどの変調ではないのだが、なかなかどうして彼女は目敏い。

「まぁ屋内だからな。もういいだろ」

ざっと周りを見渡して誰もいない事を確認し、茜の混じった濃紫の空を見てから、鬼柳は身体の力を抜いた。ずっと気を張っていた身体が、変化する。
腕は音も立てずに漆黒の翼に変化し、舌先は蛇のように割れ、本来あるはずのない場所から新たな脚が生え、袴の下では尻尾が生えた。今現在、鬼柳自身が確認できるのはその辺りだが、対面に座っている薬司姫からは顔の一部を覆っているだろう白い鱗が見えるはずだ。―――「逢魔が刻」と呼ばれる、黄昏時の一刻にも満たない間だけの、半ば強制的な変化。
薬司姫がその瞳をまあるくまあるく見開いていくのを見、鬼柳は目を細めて薄らと笑っては割れた舌先を示すようにちろりと口を開いた。

「半分が八咫鴉で四半が白蛇、残りが人間…っつー混血児なんだよ。オレ。一番濃く出たのは白蛇の血だがな」
「……、…あー」

我に返ったらしい薬司姫が細く声を零し、緩やかに首を傾いだ。そして抑え切れない好奇心をその切れ長の瞳に宿し、ずりずりと鬼柳の傍に寄り―――その頬に、手を伸ばした。女にしてはやや骨がましい、繊細さに欠ける指先の感触を、鬼柳は黙って受け止める。
鱗の一枚一枚を指先で確かめるように頬を這った手が降り、今度は翼に変じた腕に触れた。つやつやと絹に似た感触の羽根が物珍しいのか、生え揃った向きを乱さぬ程度に、指先は何度も羽根を往復した。
しばらくしてようやく手を離したかと思えば、がし、と無遠慮に鬼柳の顔を両手で掴み―――流石に鬼柳もこれには驚いたが、さりとて止める気にはならなかった―――、ぐっと顔を近づけた。
そうしてその距離が一寸か、それよりも少し短くなったところで静止した彼女は、じぃっと鬼柳の目を見据えた。そのまま黙して微動だにしない薬司姫を茶化すように目を細め、鬼柳から口を開く。

「そんなに見つめてると襲っちまうぞ」
「遠慮します」
「…やれやれ」

ぱっと手を離し、薬司姫は鬼柳から微かに距離を取った。その様子に鬼柳は思わず苦笑する。
いくら先の発言が冗談交じりだったとしても、好いた女にこうも拒否されるのは悲しいものだ。例え、こういった態度にこそ惹かれたとしても。

「とんだじゃじゃ馬だぜ」
「今更ですね。…貴方の言葉を借りるなら、貴方がそんなんだからこんなんを好きになったんでしょう」
「よく言うなぁ」

鬼柳が思わず噴出して笑うと、薬の君は不遜とも取れる態度で鼻を鳴らした。…笑ってはいない。鬼柳はこれまで一度も、彼女の笑顔を見た事はない。

「で、昨日仰った、貴方の事というのがこれですか」
「おう。…不気味か?」
「全く。違和感はありますけど」
「はっきり言うなぁお前」
「それが私の性分です」
「…だったな」

くつりと笑い、鬼柳は御簾の外を見やった。既に日はほぼ沈み、茜と濃紺の交じり合った奇妙な色の空が広がっている。未だ逢魔の刻を抜けてはいないが、四半とはいえ人の血を引く鬼柳ならば人型に戻れる頃合だ。そう判断し、彼は変化していた部分を人のそれに変えた。

「ん、やっぱこっちの方が動きやすい」
「半分以上が妖でもそういうものなんですか?」
「あぁ、まぁな。他の妖がどうかは知らねぇが、少なくともオレは人型の方が動きやすい」
「ふぅん…」

薬司姫は不思議そうに首を傾げて鬼柳を見つめる。彼はにんまりと悪戯っぽく笑い、同じように首を傾げた。

「どうした? 惚れたか?」
「いいえ別に」
「…傷ついた」
「思わせぶりな事を言うよりずっといいと思いますけど」
「まぁ、な」

確かに、下手に期待させられるよりはこうしてすっぱりと切り捨ててくれた方が気が楽だった。鬼柳は苦笑して、よいしょ、と立ち上がる。

「…あれ。今日はもうお帰りですか」
「ん。逢魔が刻の変化は結構きっついもんがある、し…毎日毎日あんまり遅くまでいるとお前が参るだろ。だから今日はこれで」
「そうですか…お気遣いありがとうございます。あとそんなに辛いなら来なくても良かったのに」
「人間だって思わせておくのが忍びなかったんだよ。あんなんは言うより見た方が早いだろうと思ってな」
「そうですか。わざわざありがとうございます。…お気をつけて」
「おう」

御簾を上げて片手を振り、鬼柳は屋敷を出た。
道中、別れ際の彼女の言葉を思い出してひっそりと唇の端を持ち上げたのは、彼自身しか知らない事だ。



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