医者の不養生
「…医者が風邪引いてりゃ世話ねぇよなぁ」

玉子粥を作っていると、鬼柳さんがぽつりとそう呟いた。つられるようにして鬼柳さんを見る。鬼柳さんは器と匙を取り出して、それらの入っていた戸棚を閉めたところだった。
長い睫毛が影を落としていて憂いを帯びたその表情は、男の人にこう言ってもいいのかわからないけれど、とても綺麗だと思う。

「でも、エルダさんだって忙しい人ですし」
「自分の事を疎かにしただけだ」

不機嫌な声で切り捨てるように言った鬼柳さんの言葉に、実は同じだけの感情は込められていない。本当は話題の張本人、エルダさんをとても心配している。
「エルダが風邪引いた」と言ってわたしの家にやってきた鬼柳さんは、どっちが病人かわからないぐらい顔面蒼白だった。エルダさん本人が自分で自分の状態を診断して、料理できないからわたしにお願いしている、って事らしかった。いつもの落ち着いた様子だったけど、それでも、エルダさんの事が心配なのはよくわかった。

「そんな言い方しちゃ駄目ですよ。エルダさん、いつも頑張ってるのに」
「………」

怒ったような声を作ってみると、鬼柳さんは罰の悪そうな顔をしてわたしに器を差し出した。本当は怒ってないけど、怒った顔のままでお粥をよそった。

「…それで身体壊してたんじゃ、元も子もねぇだろ」
「もう…」
「耳に痛いけどせめて本人がいないってわかってるとこで言え馬鹿」

素直じゃないなぁ、なんて思っていると、聞き慣れた声で聞き慣れない言葉遣いが聞こえた。鬼柳さんと一緒に振り返ると、ジト目でこちらを睨むエルダさんが立っていた。顔は真っ赤で髪はぼさぼさ、いつもの白衣じゃなくて寝巻きにカーディガンを羽織った、いかにも病人っていう状態だ。

「…エルダさん!」
「お前…どうして起きてきた」

エルダさんを部屋に戻そうと思って器を鬼柳さんに押し付けようとしたらいなかった。いつの間にかエルダさんの傍にいる。匙は…テーブルに置いてある。本当、いつの間に移動したのかな。
エルダさんは壁に寄りかかりながら鬼柳さんをあからさまに睨んだ。

「悪いか」
「悪いに決まってんだろ。薬も飲んでねぇくせに」
「え、エルダさん、お薬飲んでないんですか?」

鬼柳さんの言葉に思わず声を上げた。風邪を引いたら風邪薬を飲んで、熱が出たら解熱剤を飲むものじゃないの?
瞼を下ろしたエルダさんは忌々しそうに舌打ちをした。
…え、舌打ち?

「あんなもん飲めるか。病原体が熱に弱いのは周知の事実だろうが。何が悲しくて熱下げて長引かせるような真似をしなきゃならんのだド阿呆」
「―――」

…今わたしと鬼柳さんが話しているこの人は、本当にこの街のお医者さんのエルダさんだろうか。わたしの知ってるエルダさんは舌打ちなんてしないし、こんな口調で話す人じゃ、ないのに。
混乱していると、わたしに視線を移したエルダさんと目が合った。思わずびくりとしたわたしが何も言えずにいると、エルダさんが首を傾げた。

「…ニコちゃん、お粥作ってくれたんですか」
「えっ…あ、はい…」
「頂いてもいいですか?」
「あ、ど、どうぞ」

元々そのために作ったので、とお粥の入った器をテーブルに置いて、椅子を引く。鬼柳さんに支えられるような格好になったエルダさんは多少ふらふらしながらも意外としっかりした足取りでやってきて、沈むように座った。

「ほんと嬉しいですありがとうございます…頂きます」

エルダさんは力なく笑って手を合わせ、もぐもぐとお粥を食べ始めた。エルダさんは普段から表情の読めない人だけど、わたしの料理を食べる時は少しだけ目元を和らげる。今もそうしてくれているから、どうやら美味しいと思ってくれてるらしかった。食欲もあるみたいだし、よかった。
ところで、さっきからわたしの目の前にいるエルダさんはわたしの知っているエルダさんだ。ちょっと平坦だけど、丁寧な口調で話す人。
さっきのは気のせいだったのかな、なんて思っていると、エルダさんの隣の席に座った鬼柳さんがテーブルに頬杖をついた。

「で、どうして出てきたんだ」
「熱が出てるとだるい。寝てるより話してた方が気が紛れるんだよ察しろ健康優良病人」
「何だその言葉は。それに今は病人じゃねぇよ」

…気のせい、じゃなかったらしい。匙をくわえたエルダさんから、間違いなく罵倒の言葉が飛び出した。鬼柳さんは涼しい顔をしてるけど、わたしはびっくりして二人を見比べてしまった。
すると、鬼柳さんと目が合った。すぐに逸らされて、代わりに笑顔が浮かぶ。でもたまに見せてくれる優しい笑顔じゃなくて、玩具を見つけたような、悪戯っぽい笑顔だった。

「ニコが怖がってるぜ、せんせー」
「えっ!? い、いえ、わたし、そんな!」
「………」
「エルダさんっ、本当に怖がってないですから…!」

まさかわたしに飛び火するなんて思ってなかった。じっとりとした目で鬼柳さんを睨むエルダさんに慌てて弁解すると、口に含んでいたお粥を飲み込んだエルダさんがのろのろとわたしを見た。

「…すみません、ニコちゃん。私、さっきの口調が素なんですよ」
「え、でもいつもは…」
「普段からあんな口調で喋れるわけないでしょう…素で罵倒するような医者に誰がかかりますか…」
「オレ」
「お前は黙れ」
「心配してやってるのにそれはねぇだろう」

夫婦漫才みたいなやり取りを見ていると、別に口が悪くても、エルダさんは面白い人なんだから、診てもらいたいって人はいそうだなぁ、なんて思った。



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