予期せぬきっかけ
鬼柳は自宅を出て、エルダの自宅兼診療所へ足を向けていた。診療所には定休日が存在しないが、今日は緊急の用事が入らない限りは休みだからとエルダが招いた。
鬼柳の自宅にエルダが来る事も考えたが、エルダは「患者さんがいらっしゃった時にすぐに対応できるので」と拒んだ。恋人ではなく患者を優先する事への苛立ちなど欠片もなかった。むしろ彼女のその姿勢にこそ鬼柳は惹かれている。
そんな彼女の顔を見るのを楽しみにのんびり歩いていると、診療所が見えてきた。少しばかり足を速め、そこで違和感を覚える。争っているような音がするのだ。
まさかエルダに何かあったのかと、駆け出そうとした時の事だ。診療所の窓の中で、白いものが靡いた。直後、また派手な音が響く。
鬼柳はうっすらと自分の意識が遠のくのを感じた。
今のが見間違いでなければ。
今し方動いたのは、それも大の男を伴い、彼を投げ飛ばすような機動で翻ったのは。
紛れもなく、恋人の白衣だった。



++++++



「あ、京介さん」

ノックもなしに診療所に入った鬼柳を見て、エルダは注射器をくるりと回した。その腕は二倍ほどの太さはあろうかという男の腕を捻り上げて背に押し付け、エルダ自身もうつ伏せに倒れている男の腰の辺りにどっかりと片膝を立てて行儀悪く座り込んでいる。その足は男のもう片方の腕を踏みつけ、動けないように固定している。
少しばかり現実逃避したくなったが、同時に鬼柳は安堵を覚えた。よかった、ソファがひっくり返ったり棚が乱雑に開けられた跡があったりしているが、彼女に怪我などはないようだ。
エルダがのそりと立ち上がり、「使用済」とラベルの貼られた容器に注射器を入れた。その間、文字通り尻に敷かれていた男は自由を得ていたはずだが、何故か呻くだけでぴくりとも動かない。ぱたぱたと鬼柳に歩み寄ってきたエルダはその男を指さした。

「あの人、しょっぴいて下さい。私の事を襲おうとしたので」
「…あの状況を見てそれを信じろというのか」
「信じろとは言いませんけど京介さんなら信じてくれるとは思ってます」

言ってくれるじゃねぇか、と鬼柳は口元を引きつらせた。とはいえエルダの言う通り、彼女の言を疑うつもりなど欠片もなかった。この街において鬼柳に嘘を吐くメリットはなく、それ以上にエルダが鬼柳に対して嘘を言う必要性もない。

「ところでそいつ、動かねぇが大丈夫なのか?」
「筋弛緩剤を少し打っただけなんで大丈夫です」
「…そうか」

いろいろと言いたい事はあったがとりあえずその全てを腹の奥底に押し込んだ。伸ばしっぱなしの銀髪をガリガリと掻いて、状況を問う。

「で、何があったんだ」
「この人が押し入ってきて私を襲おうとしたので…投げて腕を捻り上げて筋弛緩剤を打ったところで京介さんが来ました」
「お前がそいつを投げたって時点でにわかには信じられねぇんだがオレはどうしたらいいんだ」
「貴方を5回ぐらい投げたら納得してもらえますか?」
「よしわかった信じるからオレの襟を掴むな袖も取るなそもそも疑っているわけじゃねぇ」

むんずと掴まれた襟と袖。エルダの目が本気であった事や鬼柳のそれに軽く引っ掛けるようにされた足から危機感を覚え、掴まれていない方の手で襟を掴むエルダの手を引き剥がした。
思いの外素直に離れたエルダは軽く肩を竦め、ぽかぽかと鬼柳の胸元を軽く叩いた。

「それより早くあの人を連れてって下さい」
「あぁ、悪い」

ポケットから携帯端末を取り出し、自警団とは言えないがそれに近い組織のメンバーに連絡を飛ばす。程なくして、筋弛緩剤の効果も切れないうちに男は連れて行かれた。
それを見送り、ようやく静かになったところでエルダがぐるりと部屋を見渡した。そして申し訳なさそうに眉を寄せる。

「…京介さん、すみません」
「ん? 何がだ」
「部屋が散らかってしまいました。せっかく京介さんがいるのに」
「…あぁ、まぁしょうがねぇだろ。全面的にアイツが悪い」

顔もろくに覚えなかった男の事を思い出す。どうせ、鬼柳の弱点として目をつけてエルダを襲いに来たのだろう。そう考えると腹の底から苛立ちが沸いてきた。
その苛立ちに任せて小さく舌打ちをすると、エルダがますます申し訳なさそうな表情を浮かべた。軽く溜息を吐いて細身の身体を抱き寄せる。

「そんな顔すんな、エルダに怒ってるわけじゃねぇ」
「でももう少し用心してれば、京介さんがそんな顔しなくて済んだのに」
「…それはそうかもしれねぇな。そしたらお前のそんな顔も、見なくて済んだ」

四六時中一緒にいられるわけではないのだから、自分で守れる範囲は限られている。鬼柳はそれを重々承知している。しかし、だからといって今回の件を「仕方がない」で済ませる事ができるほど、鬼柳は諦めの良い性格ではなかった。
もっと早く起きていれば、もっと早く自宅を出ていれば、もっと早くここに来ていれば。そんな考えばかりが脳裏をよぎって、エルダを抱きしめる腕に軽く力を込めた。

「…なぁ、エルダ?」
「はい。何でしょう」
「ここに住んでも、いいか」

呟くような問いかけに、腕の中で恋人の身体が強張るのを感じた。気まずさや嫌悪といったものではなく、純粋に驚いたようだ。
がばっと顔を上げるエルダを見下ろして視線を合わせ、もう一度口を開く。

「オレがここにいれば、あんな事をしようと考える連中も少なくなるだろう?」
「………」
「お前なら…さっきのを見る限り、大丈夫そうだが…それでも心配だ」
「………」
「…嫌か?」

無言のままのエルダを少しばかり不審に思い、そう問うた。ぶんぶんぶんと首が外れるのではという勢いでエルダは首を横に振った。
そして我に帰ったように軽く目を見開いたかと思うと鬼柳の腕をすり抜ける。

「…あの、京介さん」
「何だ?」
「よろしくお願いします」

エルダは鬼柳でなければ気付かないほど僅かに震えた声でそう言うと、ぺこり、頭を下げた。
鬼柳はしばし呆気に取られていたが、喉の奥で笑って「おう」と頷きながら恋人の頭をくしゃりと撫でた。



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