Ausbruch!
その日、Wは自分の目を疑った。大きく瞠目したばかりに右目を縦断する十字の傷が引き攣れて痛んで、しかしそれさえ気付かないほどに動揺した。
凌牙が笑っている。いや、それだけなら珍しくない。デュエルの最中に何度も見た。ほんの一滴の血の臭いを嗅ぎつける鮫のようにぎらついた目で、獲物を見つけたハイエナのように笑うのを、何度も見てきた。
しかし今の凌牙はどうだ。そんな獰猛な様子は塵ほども見せず、花でも愛でるような柔らかい笑顔を浮かべている。
その笑顔を向けられる相手を「花」とするならば納得のいく事だが―――そもそも凌牙に花を愛でるような趣味はなかったはずだ。

「凌牙くん、荷物ぐらい自分で持つよ」
「手首捻ったって言ってただろ。駄目だ」
「大丈夫だよ。ほら、腫れてもないでしょ? 全然、痛くもないですし」
「悪化したらどうする。…帰ったら湿布貼っとけよ」

どうやらWの耳もまた、正常に機能していないらしかった。あの獰猛な声が特徴的な凌牙の口から、紛れもなく傍らの少女―――Wがナッシュの足止めを買って出た時にも傍らにいた少女だ、確かナナシといった―――に対する労りに満ちた声と言葉がするすると滑り落ちるのだ。

『凌牙はナナシをとても大事にしてますのよ。私達にバリアンの記憶が戻った後、私達の目の前でイチャイチャと…あれはもう病気かもしれませんわね』

高らかに艶めく声が脳裏に再生された。あぁ、そういえば璃緒がそんな事を言っていたな。
なるほど、今Wが見聞きした事が全て現実だとすれば確かに凌牙は病気かもしれない。しかしこれを現実だとは認めたくない。断じて認めたくない。
不意に、その凌牙が顔の向きを変えた。混乱から立ち直れないままに立ち尽くすWと目が合う。凌牙は―――これ以上ないような顰め面をした。

「…凌牙くん、どうしたの?」

ナナシがとんとんと、小さな手で凌牙の肩を叩く。ぱっと振り返った凌牙にあの嫌悪の表情は見られず、それどころか彼はやんわりとした笑顔さえ浮かべて見せた。

「何でもねぇ。ほら、帰るぞ」
「荷物…」
「俺が持つ」

あんなにも愛想の良い凌牙をWは知らない。彼との関係をいくらか良好にしてきたWは、自分には勿論の事、凌牙が(表に出すかどうかは別にして)溺愛している璃緒にだって、あんな顔を向けているのを見た事がない。
ナナシが、あの無邪気な笑顔を浮かべる少女が、何かしら凌牙の琴線に触れたのだろうか。いや、それどころではなく、何かの扉にフルスイングで風穴を空けたのかもしれない。
凌牙、と声をかけようとして、それを見計らったかのように凌牙が振り返った。

「!」
「………」

ひやりとその場が凍るような視線の後、凌牙は伸ばした親指をひょいと下ろした。―――周到にも、ナナシに見えない角度で。

(あ・の・野・郎…!!)

文句の一つでも言おうとして、その前に凌牙がナナシに向き直ってその小さな頭をくしゃりと撫でた。そしてWが突っかかる間もなく、するすると雑踏に消えていく。お邪魔虫は消えろという事か。Wはげんなりと溜息を吐いた。
あれは確かに凌牙だった。あの生意気で敵意に満ちた態度は凌牙以外にありえない。しかしナナシへはあのように優しい事。なるほど、璃緒をして病気と言わせるわけだ。
わざわざ突っかかろうとした自分が馬鹿らしく思えて、Wはくるりと踵を返した。
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