クルーエル・ハートフル
統制機構に入れなくなりました、とナナシは言った。顔を顰めて、ジンはその報告を聞いた。

「…何故だ」
「手が思うように動かなくなりまして」

何でもない事のように、彼女はひらりと手を泳がせた。両刃の剣を使うその手には、ジンの手とは違った場所に肉刺ができている。今この場で改めて見ずとも、ジンはそれを知っている。儀礼的な握手を交わした時、ナナシの手は彼が怯むほどに硬く、ずっしりとした感触を伝えた。

「軍医が言うには後遺症だそうです」
「後遺症…まさかイカルガの時のか?」
「そうです」

ジンは言葉を失った。未だ混乱の残るイカルガ戦役、ジンと同じく就学中にもかかわらず戦場に駆り出されたナナシがその戦線で怪我を負ったのは、ジンの聞き及ぶところでもあった。噂に聞いた程度の曖昧な情報だ。次の日には彼女は最前線に戻っていたから、大した事はないのだと思っていたのに。
乾いた舌の根をどうにか動かし、「聞いていない」と言う。それは暗に、受け入れられないと言っているのと同じだった。

「…そうですね、言いませんでしたもの」

溜息と共にナナシは頷き、制服の袖をぐいと捲った。四苦八苦しながら肘の上まで捲られた袖の下を見て、ジンは秀麗な眉間に皺を刻んだ。
白い肌には細かな傷跡が無数にある。あるいは銃弾の掠めた痕が、あるいは剣や爪牙に斬られた痕が、あるいは術式によるものだろう不自然な痕が見て取れる。
そしてそれらの上から―――引き攣れ、変色し、醜く盛り上がった皮膚が覗いていた。

「対峙したのは腕のいい剣士でしたが…変に避けたのが仇になって、傷口がこうなりました」

袖から見えるのは1センチにも満たない範囲だけだ。それでもまるで素人が斬りつけたような潰れた傷口だとわかる。袖の内側は恐らく、想像するのも憚られる有様になっているのではないだろうか。

「その後も戦場に出続けたのが響いて、時々痺れるようになりました。握る力も弱くなりましたし、これでは衛士にはなれません」
「相手は」
「その場で斬りましたよ」
「そうか」

残念だった。生きていたら、その相手の四肢を彼女と同じようにした上で、斬ってしまいたかった。しかし他ならぬナナシ自身が引導を渡したと言うなら文句は言うまい。
袖を下ろしたナナシはふっと吐息しながら微苦笑を浮かべた。

「…こんなの、もっと先の事だと思っていました。貴方と肩を並べて、長く戦えるものだと…思っていました」
「………」

ジンはしばし黙り込んだ。漠然とした話が急激に降りてきた心境をジンに推し量る事はできない。その気もない。

「…これからどうするんだ」
「…どうしましょうね。他の仕事を探すにも、この手では難しいでしょうし」

頬に手を当て、ナナシは首を傾げた。そうしていれば育ちの良さを窺わせる令嬢であるのに、彼女は幼い頃から剣の道を歩んでいたという。それ以外を知る事もないままに。その結果、腕や脚はしなやかに引き絞られ、胴は堅く揺らがせる事さえ難しく、何よりその手は丸みや柔らかさからはかけ離れて無骨になった。
―――戦うために組み上げられたその身体が、衰えるばかりになるというのか。

「お前は弱くなるのか」
「…は」

思わずと口をついて出た問いにナナシはぽかんと口を半開きにし、すぐに恥じるように口元を押さえて考える仕草を見せた。

「…そうですね、物理的には、相当。…残りの手でも剣を振るう事自体はできますが、利き手で振るのとはわけが違いますし」
「なら、追いつけ」

ジンは手を伸ばし、ナナシの腕に触れた。無事な、しかし利き手ではないがゆえにどうしても不自由を抱える、それでもやはり引き締まった、戦士の腕だ。
戸惑いに視線を揺らしてジンの手を一瞥し、再びジンと目を合わせたナナシが首を傾げた。続きを促されている。

「この腕で剣を振れ」
「…難しい事を仰いますね」

苦く微笑み、ナナシはジンの手に元の利き手で触れた。その動きはぎこちない。

「でも、最初からそうするつもりでした。…待っていて下さいますか?」
「僕はそんなにお人好しじゃない。お前のために待っていてやるつもりはない」
「…はい」

何がおかしいのかくつくつと笑って、ナナシはジンの手を引き剥がした。そのまま離さずにいるところを見ると、嫌だったわけではないらしい。
その手を口元に引き寄せたナナシは緩やかに目を伏せ、騎士のように手の甲へと唇を寄せた。

「死に物狂いで、追いつきます」

言い終わるが早いか利き手が震え、ジンの手を取り落とした。ナナシに預けていたその手は微かに下がったが無防備に落ちる事はなく、静かに定位置へ戻された。

「…それでは、私はこれで。いろいろと…手続きもありますので」
「…わかった」
「いずれ、また」
「あぁ」

折り目正しく頭を下げて、ナナシは涼やかに踵を返してその場を辞した。忌々しそうに腕に爪を立てた瞬間を見たのは、きっとジンだけだ。
いずれ。また。その機会がいつ来るのか、誰も知らない。来ない可能性も勿論ある。だが、それが何だというのだろう。
ナナシは追いつくと言った。ジンに誓いを立てた。彼女に言った通り、待ってやるつもりは微塵もない。あの誓いが果たされないのであれば、その時は切り捨ててやればいい。弱者に落ちる前に、ジンがナナシに引導を渡せばいいのだ。
ナナシの唇を受けた手の甲に己の唇を重ね、ジンはしばし想いに耽った。
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