月の祷り
「ちゃんと帰ってきて下さいね」

アゼルの弓を抱えたナナシは、祈るようにそう言って弓を差し出した。見下ろしたその手が震えている。妻に視線を戻したアゼルは何か言おうと思ったが、相応しい言葉を見つけられず―――あるいはナナシの求める言葉を言ってやる事ができず―――結局は無言で弓を受け取った。

「ちゃんと帰ってきて下さい」

今度は本格的に手を組んでナナシが言った。小さく吐息して、アゼルは微かに考え込む。
アゼルは自分が元々口数の多い方ではないと自覚していたし、それが原因なのか何なのか、ジョルクと違って言葉に長けていない事も、かといってバイマトのように気を回せる気性さえ持っていない事も、自覚していた。

「…わからん」

だから、方々へ使い走りにされた時も馬の放牧に出掛けた時も笑っていた妻に、素っ気ない言葉しかかけてやれない。
ナナシは俯き、組んだ己の手をじっと見つめていたが、ややあってゆっくりとそれを下ろした。手持ち無沙汰になったその手を握ってやる殊勝さは夫にはなく、それを熟知している妻はずらりと矢の入った矢筒を持ち上げて手渡した。それを受け取り、帯の上から巻き付けるように提げ緒を締める。

「待っていますよ」
「………」
「…私はアミルさんのように、弓を持ちませんから…戦の事は少しもわかりません。だから、待っています。…アゼルさんが帰るのを、待っています。―――ご武運を」

再び手を組んだナナシが緩やかに頭を下げた。実妹のようにアミルを可愛がっていたナナシの事だ、あれが今暮らす街を落とす事に抵抗を覚えないはずがないだろうに。それでも彼女は迷いのない祈りを込めて頭を下げた。
何か言おうにも言葉が見つからず、その居心地の悪さを誤魔化すためにアゼルは弓の弦を引いた。自分にとって最適の堅さであるのを確認して、筒に入れる。

「アゼルさん」
「…何だ」
「…貴方も、ジョルクさんも、バイマトさんも…できれば、アミルさんも。…死なないで下さいね」
「…これから起きるのは戦だ。それもわからん」

顔を上げたナナシに、やはり素っ気ない事しか言えない。今度はそれで良いと思えた。少なくとも下手に頷いて、それが糠喜びに終わるよりはよほど良かった。
ナナシはぱちりと瞬いた後、微かに眉根を寄せた。不機嫌そうな表情は、しかしすぐに苦笑の面に覆われる。

「…下手な慰めよりも楽です」

そうか、と平坦に呟いた言葉は声にはなっていなかった。偽る事を良しとは言えないアゼルにとって、ナナシの気丈な態度は末端を痺れさせる毒のようだった。
振り切るように帽子を被った直後、アゼル、と乱雑な声が幕家に飛び込んだ。ジョルクやバイマトならあんな声は出さない。叔父が呼びに来たのだろう。ナナシもそれをわかっていて、一度ちらと視線を億劫そうに動かしてから、アゼルに向き直って緩やかに頭を下げた。

「どうかご無事で」

懲りずに身を案じるナナシから顔を背け、アゼルは天幕を出た。果たして予想通り、正に今幕家に入ろうとしていた叔父がそこにいた。殺気だった小言に謝罪を込めた軽い礼だけを返し、待ち構える親族の下へと向かう。
死ぬ気はない。しかし人が相手ではどう転ぶかわからない。アゼルだけでなく、他の者もだ。あのいけ好かないバダンの連中も例外ではない。
もし帰れなかったら、ナナシはどうするのかとアゼルは考えて―――剣の鞘を指先で掻き、その考えを押しやった。
死後の事はわからない。目の届かない範囲の事もわからない。ならば生きて見えている範囲の事に手を出すしかないのだ。
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