promise
『こんにちは、大佐さん』
「…君か」

ジノビオスは魔力を伴って届けられた声に緩く溜息を吐き、甲板に出て手摺りから海を眺めた。果たしてそこには思ったとおりの姿があった。
アイドル集団に属しているとは思えない不遜な笑みを浮かべた少女。短く乱雑に切り揃えられた髪から覗く瞳には少女の無邪気さに混じって退廃的な光が宿る。腕を通すだけ通して肩にはかかっていない上着は荒涼としたデザインに華やかな刺繍が取られていて、やはりアイドルらしからぬ装いといえばそうだった。そして腰から下はシャチを思わせる雄大かつ獰猛なシルエット。
バミューダ△の中でも人気があるはずのマーメイド、ナナシがそこにいた。

「今日は公演があると言っていなかったか」
『あったよ。でも前座。だから今日はもうおしまい』

ジノビオスの問いに答えたナナシがざっ、と海に潜った。姿がすぐに見えなくなり、すぐに水飛沫が上がる。ジノビオスがゆっくりと海色の瞳を細めた先で、がし、と手摺りが掴まれた。それから「どっせい」と女性にしては野太い声と共に持ち上がる、ナナシの身体。

「相変わらず引き上げてくれないんだもんね」
「君の筋力なら必要ないだろう」
「ま、確かに」

手摺りと甲板の隙間に尾びれを差し込んで手摺りに頬杖をつき、これ以上なくくつろいだ様相のナナシに呆れたジノビオスは再び溜息を吐いた。

「…どうしてここにいるんだ」

用事の問いではない。この場に存在する事そのものへの問いだ。ジノビオスが今いるこの地域は俗に言う激戦区、軍人である彼らでさえ生存率は低い。そんな場所にバミューダ△のアイドルという肩書きを持つ彼女がいる事と、もう一つ。ジノビオスは彼女に異動―――もとい、更迭先を教えていない。仕事の話を個人的な知り合いに持ちかけるような事はしないから。それが何故。
ナナシは無表情に視線を投げる大佐を前にぱたぱたと乾きかけた尾びれを揺らし、考えるように首を傾げた。

「むかっ腹の立つ兵卒さんがね、大佐さんがこっちにいるって教えてくれたんだよ」
「…むかっ腹?」
「上層部に反目するから左遷なんかされるんだ、どうせ生きて返ってこれないだろう…ってね? 嬉しそうに言うから本気で腹立って耳元で叫んだ」
「………」

顔も知らない兵卒をジノビオスはしんみりと哀れんだ。ナナシはその声に魔力を含ませる事で、聞く対象を限定する事ができる。船に上がる前に彼女がしていたのはまさにそれだった。そしてその魔力を孕んだ声は、時に物理的かつ強烈な衝撃さえも明確に伴う。きっと、その兵卒とやらは失神ぐらいはさせられただろう。哀れな事だ。

「大佐さん、死なないでよ」

不意にかけられた声にはっとする。視線を合わせれば、彼女は今までになく真剣な表情でジノビオスを凝視していた。魔力の波長は感じられないから、先の声も、今向けられている視線も、全て彼女の意思一つなのだろう。

「死なないでよ」

繰り返された言葉を頭の中で反芻する。海の青を湛えたジノビオスの瞳と、ナナシの真摯な瞳の間、視線が交錯する。
ナナシがいつものように冗談を言う気配がないのを確認して、ジノビオスはゆっくりと頷いた。

「勿論だ」
「………」

微かに眦を和らげたナナシが、しばしの間を置いて身を翻した。イルカを思わせる軽やかさで優美な曲線を描き、ざん、と水の中へ。
手摺りから軽く身を乗り出すようにしたジノビオスの視線の先で、飛び込んだ時の轟音とは比較にならないほど小さな水音を立てて水面からナナシが顔を出した。
そうして、大きく息を吸ったかと思えば思えば―――魔力を孕んだ歌声が、ジノビオスの鼓膜を震わせた。そしてその歌は、ものの数秒でふっと空気に溶けるように消えた。
しぱしぱとジノビオスが瞬くと、彼女はにこりと不遜に笑って再び口を開いた。

『ご武運をお祈りいたします、ジノビオス大佐。…私が一人のためだけに歌うなんて滅多にない事なんで、まぁせいぜい頑張ってちょーだい!』
「…ナナシ」
『ここが危ないって言われてる間はここには来ないから。早めのいい報せを期待してるよ。じゃあね』

ぱしゃん、と水から出した手を軽く振って、ナナシは海中へと姿を消した。

「…なかなか無茶な事を言う」

口元に緩やかな弧を描き、ジノビオスは踵を返した。彼女の突拍子のない言動に振り回されるのは、もう慣れていた。
最小限の損害で、なおかつ迅速にこの地区を制圧するには―――。
船内に戻ったジノビオスは、己の正義を掲げる大佐としての表情を戻していた。



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