抱擁者
好きです、と言われると困った。彼は好意を受ける事を恐れていた。
愛しています、と言われると心が痛んだ。彼は愛など存在しないと思っていた。
本当は違う。彼は好意を受けたがっていたし、誰よりも愛の存在を知り、愛に飢えていた。
彼は友愛を知っていた。友好を知っていた。しかしそれだけだった。獣でさえ受けられるだろう親からの愛を、他者からの恋愛を、知らぬままに育っていた。だからこそ彼は、彼女の囁く好意や愛を受け入れる術も拒む術も持たず、ただただ辛い表情を返した。
それをようやく受け入れる事ができたのは、いつの事だったか。永い年月がかかった気がする。彼も彼女も長寿を誇るエルフの眷属で、互いに老いる事がないのが救いだったと、今では思う。
しかし、そこから先もまた長いものだった。彼はあまりにも優しく、それゆえに誰かと触れ合うのがとても苦手だった。彼女が触れようとすればさりげなく身を退き、彼から手を伸ばす事はただの一度もなく、いくらかの時を過ごした。彼女が一方的な恋慕を寄せ続けた期間と比較すれば指を一本曲げ伸ばしするような短い時間だったが、それでも随分と長かったように思える。
彼は解放者の称を騎士王から賜り、人との繋がりを信じられるようになってようやく、戸惑いながらも恋人と触れ合う事ができるようになった。
尤も、問題はそれだけではなかったのだが。

「…やはり、こんな事をしては駄目だ」

寝台の中、灰色がかった金の髪を揺らした彼―――ガンスロッドは顔を歪めた。寝台についた両腕の中、ずっと恋慕を囁き続けてくれた彼女―――ナナシがふんわりと柔らかく微笑んだ。互いに一糸纏わぬ姿でありながら、至高の絵画のような光景がそこにあった。

「…そんな事を仰らないで」

ぼうと月明かりを反射する白い腕を伸ばし、ナナシはガンスロッドの耳に触れた。エルフほど長くはなく、さりとてバイオロイドやヒューマンほど短くもない、半端な耳だ。ガンスロッドにとってはトラウマに等しいそれを、ナナシは宝物に触れるように慈しんだ。
ガンスロッドは拒む事こそなかったがぐっと顔を顰め、万の刃を受けたように苦しそうな表情で瞼を下ろした。そうして、緩やかに首を横に振る。

「駄目だ。君が謗りを受ける。…君だけではない。子を孕んだら、その子まで」

身体を横に倒そうとしたガンスロッドを、ナナシは非力な細腕で懸命に支えた。瞼を上げたガンスロッドは姿勢を直し、咎めるようにエルフの淑女を睨んだ。
ナナシはその視線を物ともせずたおやかに微笑みながらガンスロッドの頬を両手で挟むと、くいと身体を起こした。唇が、触れ合う。
ほぅ、と彼の口内に吹き込むように吐息しながら唇を離したナナシは、うっそりと長い睫毛に縁取られた瞳を細めて微笑みを深めた。

「…ガンスロッド。私の愛しい人。そうしてご自身の幸福を放棄してしまうような事を、仰らないで。貴方はもう、嫌忌される立場にはないのですから」
「…だが…俺が禁忌の子である事実は変わらない。……きっと、悔やむ」
「ガンスロッド。私にとって、貴方は禁忌の仔ではありません。半分の同胞です。その貴方と契りを交わして、何を悔やむ事がありましょう。もし悔やむとしたら、それは貴方が私を捨ててしまわれる時です。それ以外で私が悔やむ事は生涯ございません。…だから、ねぇ、ガンスロッド」

ぽすんと軽い音を立てて寝台に戻ったナナシは、戦乙女が英霊を招くように、慈母が愛し子を抱くように、細い腕を広げた。底の知れぬ慈愛にガンスロッドの背筋がぞくりと粟立った。

「もし、少しでも私を愛しいと思って下さるなら…抱いて下さい。…血も、先の事も、立場もなく、一個人として、私を求めて下さい」
「―――……」

そう言ったナナシがいっそう笑みを深めた。ガンスロッドはくらりと眩暈を覚えた。天上の華とてこの美しさには敵うまい。覚悟を決め、その唇に恐る恐ると吸い付いた。あまくやわらかい。ふいと目を伏せたナナシの腕が広い背に回り、柔らかに彼を抱きしめた。
顔を離し、感極まったように瞳を潤ませるナナシの頬を、指の背でぎこちなく撫でる。受け入れるのに多大な時間を要したものの、少しどころではなく彼女を想うこの気持ちに偽りはない。彼女に応えるなら、このまま進めるべきなのだろう。そうしたい気持ちも、少なからず存在している。

「……ナナシ…」
「はい、ガンスロッド」

頬を撫ぜていた指先でナナシの長い髪をそろりと掬い、そこにも口付けた。絹糸など足元にも及ばない、滑らかでしなやかな感触が愛おしい。同時に、心の底から嬉しそうに笑うナナシが、あまりにも眩しい。
一度軽く目を伏せ、ガンスロッドは沈黙した。虫の声も届かない部屋に、二人分の細やかな息遣いだけが響く。その沈黙は耳に痛い。ナナシは催促せず、むしろその沈黙さえいとおしむようにゆっくりと瞬いて言葉を待っていた。
ややあって目を開いたガンスロッドは、ふわふわと羽毛のように微笑むナナシにもう一度口付けた。そんな動作も、これから一言放つのも、彼にとっては戦場に赴くよりよほどか恐ろしかった。掠れそうになる声をはっきりと落とすだけで精一杯だった。

「…愛して、いる」

ただそれだけの言葉を伝えるのにどれほど時間をかけただろう。市井の者ならばそれこそどこででも言えるだろうに、ガンスロッドの中に流れる血はそれを許さない。それでもナナシは彼を責めるどころか、いっそう幸せそうに微笑むのだ。

「…はい」

ナナシは沈黙の合間に潤みの失せていた瞳に膜を張った。初恋にのめり込む少女のように頬を染め、その瞳を細めて、ただただ頷いた。ガンスロッドは純真無垢なその態度にどうしようもなく申し訳なくなって、こつり、額を合わせる。

「臆病な男ですまない…」
「いいえ…貴方の臆病さは、貴方の優しさの証ですもの。…愛おしゅうございます」
「………」

誤魔化すように額を離し、すっと降りた。白く細い首筋に軽く口付けて、少し躊躇った後、彼女のローブの襟で隠れるだろう鎖骨付近に一つ、赤い華を散らした。それだけで罪悪感に駆られるこの臆病な心は、きっともうどうしようもないのだろうと、ガンスロッドは諦めに似た気持ちでそう考えた。
ひゅるりと糸のような声を零したナナシがもどかしそうに身を捩り、ガンスロッドの髪を撫ぜた。急かすようでいてどこまでも楚々とした丁寧な手つきが、ふわふわと緩やかに波打った金糸を愛でる。時折掠めるようにして耳に触れられるのがどうしようもなく恐ろしい。

「…ナナシ」
「はい?」
「……、…耳には…触れないでほしい」

淡々と要望だけを掻い摘んで告げてから、今からやろうとしている事を考えたらあらぬ方向に誤解されてもおかしくない、と気付いた。
訂正の言葉を入れるより早く、ナナシが「あら」ころころと清流のように笑って首を傾げ、それまでとは打って変わって酷く蠱惑的な仕草でガンスロッドの頬骨を指先でなぞった。

「耳は、敏感でいらっしゃる?」
「…返す冗談にしては性質が悪い」

彼女を傷つけず、自分も傷つく事のない精一杯の範囲で嫌味を返し、再び柔肌に身を沈める。意地悪く零されたナナシの笑い声は、肩口に軽く歯を立てる事で遮断させた。
そうして覚悟を決めてしまえば、後は戦場に出る時と同じで―――戦場を単騎で駆ける方がまだマシだと思える程度には多大な労力を要したが―――恐怖心を抑え込む事ができた。
全て終えた時に後悔があったのはガンスロッドだった。乞われるままにナナシを求めたが、たとえ合意の上だったとしてもガンスロッドが混血児だというだけで、糾弾されれば言い逃れなどできまい。そういうものだとガンスロッドは諦めている。
きっと、隣で健やかに眠る彼女はそんな事を微塵も考えていないのだろう。ナナシはアシュレイと同じく他者を疑う事をしないから、ガンスロッドが糾弾されるとは思っていないはずだ。勿論―――それがどれほど無責任な事かもわかっているから、その内心をガンスロッドに告げる事はなかったけれど。

(…愛している)

情事の直前には明瞭に発音するだけで精一杯だった言葉を、そろりと口にする。声には出さず、吐息だけでなぞるように。すよすよと寝息を立てるナナシに聞こえていないのは、幸だったろうか、それとも。
長く美しいナナシの髪を指先で梳くように撫ぜて、ガンスロッドは静かに目を閉じた。



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