獅子休眠
※エイゼルは昏睡しているだけです。





一瞬。ほんの一瞬、ただの一度だけの話だが。血の気の引いた土気色の肌を見て、眼前で眠る彼が、実はもう事切れているのではと、思った事がある。昏々と眠る彼に戦場を駆ける時の猛々しさは見る影もなく、蝋細工のように白い顔色は獅子と湛えられる彼に似つかわしくなかったから、きっとそのせいだと、思いたい。
虚無を打ち払う事と物理的な傷を癒す事は全く別問題だ。道化の指揮下に現れた終末兵器―――グレンディオスといったか。アレから受けた傷はエイゼルに少なからぬダメージを残したらしい。治療用の天幕に運ばれて糸が切れるように倒れてからこっち、彼はただの一度も目を覚まさない。
命すら危ぶまれるような怪我を負い、部下に支えられながらも歩く体力さえ失って尚、彼の瞳から闘志が失せる事はなかった。「早く治せ」「あの兵器を潰す」「戦線に―――」、最後に彼が何を言いたかったのかはわからない。わかるつもりもない。言葉の途中で意識を失った時はいっそ安心した。リンクジョーカーなどに屈するのは真っ平ご免だが、エイゼルを喪うのはもっと嫌だ。彼は私のものだ、あんな悪感情で構築されたような兵器なんぞにその命をくれてやる道理はない。
さておき、エイゼルが意識を失ってから数日の後、リンクジョーカーは潰走した。異形の侵略者達はほぼ滅んだ。城に帰還した私は、お陰で彼の治療に専念していられた。エイゼルの傷は重かったが生きていれば癒せる。しかし死んだらそれまでだ。
そこへいくと眠ったままでいてくれる現状は彼をゆっくりと療養させるには都合がよかった。意識のある彼を放置しておくと、骨が折れていようが傷が開いていようが「身体が鈍る」と剣を手に修練場やら闘技場やらへ向かおうとするから、引き止めるのに苦労するのだ。リアルな獅子の方がよほどか大人しい。あぁでも、実際にこうも大人しくされると―――いや、それ以前の問題なのだが―――どうにも落ち着かないな。

「なァ、オイ…っと」

バグデマグスの声が聞こえ、次いでノックの音が聞こえた。粗雑な彼らしいたどたどしい作法を微笑ましいと思っていたのが昔の事のように思える。今はそう思うだけの余裕がない。淡々と受け入れ、どうぞ、と入室を促した。
気だるそうに頭を掻きながらドアを開けたバグデマグスはずかずかと無遠慮に私の隣までやってきて、目を覚ます気配のないエイゼルと、そんな彼に淡々と治癒術をかけ続ける私とを見比べた。

「…大将、まだ目ェ覚めねーのか」
「うん…でもまぁ、生きていられるのが不思議なぐらいの怪我だったから、命があるだけ儲け物だと思いますよ」

ばりばり。再び頭を掻いたバグデマグスがいつになく気難しい顔をした。エイゼルに心酔し、彼の下で戦う事を喜びとするこの男は、頭が悪いなりにエイゼルを心配しているのだ。

「…にしても遅すぎやしねェか? あれからもう何週間か経っただろ」
「怪我自体は、もうほとんど治ってるんだけどね。…ほら」

ベッドの掛け布団を軽く捲って、色がほとんど失われているエイゼルの手を出した。ゆったりと長い衣、その袖を軽く捲る。肌のまっさらだった箇所につけられたもの、古傷の上から走るもの―――真新しい傷は様々あれど、その全ては塞がりかけている。
バグデマグスが狐に摘まれたような表情で私とエイゼルを見比べるのを視界の端に、平時より明らかに体温の低いエイゼルの手をベッドに戻す。

「…なァ、この程度の怪我で寝たまんまっておかしくねェか? いつもの大将なら起きてるぜ」
「…さっきも言ったでしょ。生きていられるのが不思議なぐらいの怪我だったんです。起きてる方がおかしいの」
「そういうモンかァ?」
「そういうもの」

あからさまな疑念を持ったバグデマグスの視線から逃れるようにエイゼルの額に触れ、声が震えないように気を付けながら頷いた。
実際のところ、先の言葉に偽りはない。しかし事実もない。私は、エイゼルの眠りを長引かせている理由の一端を私自身が担っているという事実を避けて話した。
私の使う治癒術は身体の内側の事情をほとんど無視して無理矢理傷を塞いだり、魔方陣を通して私自身の魔力を相手の体力に変換したりして、とにかく術をかける側にも受ける側にも結構な負担がかかる。相手への負担は最低限に減らす事ができるが、その分、効きは悪くなる。
エイゼルの体温が低いのもそれが理由だ。いつもの体温を保持するには、彼の体力はあまりにも落ちている。私の魔力で補っていても、傷を塞ぐ方にも魔力を割いているから、余計に。
その辺りの事情をバグデマグスが知るはずはない。ないが、彼は妙に勘が鋭い。学術的な面での頭はそんなによろしくないのだから、鈍感でいてくれればよかったのに。
相変わらずひやりとしているエイゼルの額から手を離して、値踏みするように赤い目を細めるバグデマグスを、今度は正面から見据えた。彼の事だから、本当のところを知ったら怒るだろう。余計な心配と怒りを抱かせる必要はないのだから、黙っているに越した事はない。

「目が覚めたらちゃんと伝えるから」
「…おう。大将の事頼むぜ」
「うん」

盛大な溜息と共に重苦しく腰を上げたバグデマグスに首肯を返し、少し大袈裟なぐらいの物音を立ててどかどかと荒々しく出て行った彼を見送った。あの騎士さんはここが怪我人の収容されている部屋だという事を忘れてはいないだろうか。そしてその怪我人が、まだまだ目覚める気配がないとはいえ、自分の上司である事も忘れてはいないだろうか。
彼らしい態度に呆れを混じらせて苦笑して、改めてエイゼルに向き直った。つい先ほどまで冷や水に浸かっていたかのような、血色の悪い肌。細長い呼吸音は顔を近づけなくては聞こえず、胸元はほとんど起伏しない。見慣れぬとはいえ少しずつ順応しつつある私はさておき、事情を知らない人が見たら私はエイゼルの遺体に治癒術をかけているように見えてしまうのだろうか。

「…早く起きてくれませんかねぇ」

今の私はどうしようもなく情けない顔をしている事だろう。赤獅子の一角を担っていた存在として似つかわしくない、泣きそうな顔を。
だから早く起きてくれないだろうか。さっさと起きて、「そんな顔をするな」と面倒臭そうに叱咤してくれないだろうか。あの猛々しい姿を見せてくれないとこんなにも危うくなる私を見咎めてくれないだろうか。そうして、安心させてほしい。
とはいえそんな望みを遂げるにはまだまだ彼に治癒の魔力を提供しなければならないので、私は死んだような彼の命を繋ぐために細々と治癒術をかけ続けるのだ。



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