瀑布の愛子
「…守護竜様?」

流れ落ちる水の音の中にあって尚響く声が水竜の耳を打った。億劫そうに首をもたげた守護竜は自身が加護を与えた舞い手を見下ろした。倦怠の中に知性と慈愛が見て取れる竜眼を一度しっかりと見据えたナナシはしゃなりと衣擦れと装飾の音を立てて首を傾げた。

「お疲れでいらっしゃいますか?」
『…否?』

さぁっ、と清流のような声がナナシの鼓膜ではなく、その脳髄を直接震わせた。慣れた感覚に「左様でございますか」と頷いた彼女は、うっそりと眉尻を下げた。

「それは申し訳ございません」
『良い。しかし何故そう思った』

帝国の守護竜である前に神の一柱であるこの水竜は、滅多に疲労しない。疲れにくいのではなく、疲れるほども力を使わないのだ。あまりに強大すぎるその力を無闇に使えば、水神竜の愛する原風景はたちまち崩壊しよう。そういった介入は、本意ではない。
しかしナナシは疲れたのかと問う。水竜にしてみれば瞬きの間だが、ヒューマンとしては長い期間を共に過ごした。そんな彼女が向けるには愚問というものなのに。
ナナシは鈴に似た音を立てて装飾を揺らし、麗しく微笑んだ。

「守護竜様の表情が、いつにもまして憂いに満ちておいででした故」
『…左様か』

ヒューマンほど表情筋は発達していない。なのに当代の舞い手には妙にそういった変化を見破られる。水竜は傍らの瀑布を眺め、微かに首を傾げた。

『…疲れてはおらぬ。が、憂い事は確かに有る』
「まぁ…如何されまして?」
『異形の気が漂っておる』
「異形…?」
『此の方角は…嗚呼、南方か。今は未だ其の姿を隠しておるが…ふむ、何と禍々しい力か…』

緩慢に視線を落として滝壺の水鏡を覗き込み、水竜は緩やかにその深い竜眼を細めた。自身が慈しむ帝国を憂う瞳は美しい。
実際のところ、この竜には透視の能力はない。水鏡は水脈を通して守護竜として守護する範囲―――即ち帝国を、水神としての眸で視通すだけだ。他国になどその眸は飛ばず、故に守護竜は聖の属性を備えた守護竜として、悪としか言いようのない「異形の力」を感じ取っただけだった。
さりとてナナシがその発言と態度を不審に思うはずもなく、彼女は指先を顎にやって考えるような仕草を見せた。

「南方…スターゲートですか? 偵察か警告に参りましょうか」
『要らぬよ。為る様に為ろう』

自然を愛する心優しき竜は二対の翼を緩やかに広げ、大地を抱くようにふわりと揺らした。水面に映る冬の晴れ空によく似た色の四翼は、それだけで巨大な瀑布のようだ。

『此れが杞憂ならば其れで良いのだ。若しクレイに現れたとて、そして此の侭あの国に現れたとて、あちらも猛者の揃う国だ。黙っては居るまい。どの国であろうと其れは変わらぬ。…無論、此の帝国に於いても、だ』
「…では、見守るのみと?」
『左様。戦うのは今を懸命に生きる仔等だ。斯様に倦み怠け、守護さえもあの仔等に預けた此の身が介入する必要は何処にも無い。若し、あれ等が此の地を蹂躙しようもの為らば…其の時は、此の力を振るいもしよう』
「畏まりまして。その時が参りますれば、私も微力ながらお手伝い申し上げますわ」
『嗚呼』

洞穴に雨粒がひとつだけ落ちたような澄んだ声音で頷き、それきり守護竜は口を閉ざした。ゆっくりと畳まれた四翼が納まりの良いように揺らいで止まる。ヒトが及ぶべくもない時を経たその瞳がどこを視ているのかなど、ナナシには想像もつかない。
ナナシは下流の清水のように柔らかな仕草で守護竜に寄り添い、水鏡を覗いた。いかに水竜の加護を授かったとはいえ元がただのヒューマンである彼女には何も視えず、しかしほろほろと絶えず震える水面鏡はどこまでも美しい。
ひゅるるるる、と極上の笛の音のような主君の声を聞きながら、ナナシはそっと白い両手を合わせた。

(どうか守護竜様のご懸念を、杞憂で流して下さいまし)

誰に祈ったのかはわからない。存在が確認されなくなって久しい原初の龍か、主君と同位に存在する四大元素の神の残り三柱か、それとももっと別の、何かか。
ただ、この心優しい竜が心を痛めたり激昂したりするのは嫌だ、と、強欲に祈り続けた。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -