最初の思い出
―――ポセイドン連合国の新王との縁談を取り付けた。
父が持ってきたそんな話を、わたくしは一も二もなく承諾しました。どうせこの身は傀儡です。王侯貴族、それも女とあっては、一人娘でもない限りは実家に留まる事は少ないものです。そしてわたくしには男兄弟がおりましたから、いつかは顔も知らない殿方の妻になるのだと、幼い頃から理解しておりました。
新王はわたくしと同い年で、双子の妹姫がおられるとの事でしたから、野心家かつ慎重な性分の父はその新王と妹姫をわたくしが絆す事を期待しておられたのかもしれません。わたくしの性分でそんな事ができるはずもないというのはわたくし自身しか知らぬ事でした。わたくしの外面は、「誰にも分け隔てのない心優しい王女」でしたから。
供の一人もなく、祖国から持って行ったのは数着の服と護身用の一振りの剣だけ。祖国の技術で作られたそれらが、何だかとても軽いものに思えました。

「いかがされました?」
「は」

声をかけられ、わたくしはしぱりと瞬きました。こちらの王宮に仕えておいでだという女官の一人が、頭に被るベールを手に怪訝な顔をしておりました。彼女に顔を向け、わたくしはゆっくりと首を振りました。

「何でもございません。婚儀の前で、少しばかり緊張しておりまして」

社交界で培ったのは息を吐くような嘘ばかり。今回もそうして、わたくしは嘘をつきました。ある種の諦めばかりがこの心を埋め尽くしていて、緊張などという異物の入る余地はないのに。
女官は「そうですか」と微笑んで、わたくしの頭にふわりとベールを被せ、それを髪飾りで髪と一緒に留めながら安心させるように口を開きました。

「それでは、準備が終わりましたら私は席を外した方がよろしいでしょうか。落ち着かれるように」
「…そうですね。少し、一人になりとうございます。…申し訳ございません」
「そんな、謝らないで下さい。緊張するなと言う方が無理ですもの。…さ、終わりました。それでは失礼致します」
「はい。ありがとうございます」

にっこりと笑って、女官が退室しました。静まった部屋の中、わたくしはのろのろと立ち上がって部屋の片隅に置かれた姿見の前に立ちました。
青と白を貴重とした婚礼衣装。先ほど被せられたベール、それを留める淡い蒼の花をあしらった髪飾り、水を固めたような色の石でできた耳飾りと首飾りに、袖の短いドレス、背には薄いマント、手首にレースを縫い止めた肘の手前まであるアームカバー、長い裾に隠れそうな白い靴。襟から上、化粧を施されたわたくしの、仏頂面。

(似合いませんね)

溜息を零して両手の爪を見ました。太陽が海に沈む一瞬のような、赤とも朱とも橙ともつかない色に染めた爪は、祖国では婚礼の時にそうするものでした。
何か一つだけでも良いから、祖国の慣わしを踏まえた上で婚儀に望みたい。婚儀の流れに支障の出ないようなもので良いから。そう説得した上での、この爪でした。それを祖国を離れる寂しさだと取ったらしい女官は、爪を染める時こそ奇妙な顔をなさったものの、これを許容して下さいました。無論、実際は寂しさなどはございませんでした。そもそもわたくしにはあの国への未練はございませんでしたから。
これは鎧でした。見知らぬ土地、見知らぬ人々、見知らぬ文化に囲まれてこれから一生を過ごすわたくしの、何よりも強固な鎧でした。馴染めるにせよそうでないにせよ、わたくしは未知への恐怖を少なからず感じておりましたから、その恐怖から己の心を守るためにこうしたのでした。寂しさの表れなどでは、ないのです。
婚儀まであとどれほどの時間が残っているのかを考えながら、わたくしはその場に立ち尽くして爪を見つめ続けました。



++++++



顔も知らない女との結婚。相手について知っている事はといえば、ウェーラという名前と、俺やメラグと同い年である事。それから、王族の鑑のような性格の持ち主だという噂。
婚儀の最中は確かにそれは合っているようだとぼんやりと考えていた。俺の眼前に跪いて頭を垂れて王妃としての証を粛々と受け入れたウェーラは、俺の合図を受けて立ち上がると穏やかな笑みで決められた言葉をつらつらと並べ立て、俺と並んで立って民衆にも微笑みかけた。なるほど確かに穏やかで気立ての良い、いかにも貴族令嬢らしい女だった。
ただ。あるいは王宮内で、あるいは連合の会合で見てきた仮面のような笑顔とよく似ている、とも思った。似ているだけで、決定的に違うところが一つだけ、あったのだが。
恐らくウェーラは俺との結婚を良くは思っていない。さりとて嫌だとも思っていないはずだ。婚儀はつつがなく終わり、婚礼衣装から着替えて俺の部屋に来たウェーラは少しばかり居心地悪そうにしながらも毅然としていた。今日、今さっき、会ったばかりの男と結婚し、これから同じ部屋に住む事になったというのに、悪感情らしきものは全く見せない。大した肝だ。
俺も俺で、この結婚を良くも思っていなければ悪くも思っていない。ウェーラと結婚したのは国にとってメリットがあったからで、ウェーラがこの縁談を受けたのも俺と同じ理由のはずだ。あるいは、まだ子供とも言える年齢で即位したばかりの俺を牽制するために。その両方か。とまぁ味気ない理由を並べれば損得溢れ返る婚儀だが、個人的には恋愛結婚なんかできる立場じゃないのはわかっていたから、良く思う理由も悪く思う理由もなかった。
だから、多分。太陽が海に沈む一瞬のような、赤とも朱とも橙ともつかない色に染められた爪が目に付いたのにも、それを口にしようと思ったのにも、大した理由はなかった。

「…爪」
「は」
「この国じゃ見慣れねぇな」
「………」

しぱしぱと瞬いて、ウェーラは自分の爪を見た。それから困ったように眉尻を下げて首を傾げ、俺に向き直る。

「…お嫌でしたか?」
「別に。…日の沈む色みてぇだな」

一番好きなのは、夜が明ける寸前の冬の空だ。だが常とは対照的な色に海を染める夕暮れの色も、勿論好きだ。だからウェーラの爪の色に好感を持った。
ウェーラは微かに肩の力を抜いたようだった。自分が剣を振るっているから、肩や足運びでいくらかの感情は読み取れる。ついさっきまでのウェーラは、自覚しているかどうかは定かではないが、確かに緊張していた。
それから、ウェーラは花が綻ぶようにゆっくりと微笑んだ。今度は仮面のような不自然さを感じる事はなかった。



++++++



ついさっきわたくしの夫となられたナッシュ様は、婚儀の時より少しだけ表情を和らげてわたくしの爪を日の沈む色のようだと仰いました。たったそれだけで、わたくしにとっての鎧だったこの色は、鎧ではなくなりました。

「…わたくしの国では、婚礼の時には新婦はこうするものなのです」
「郷に入りては郷に従えっつー言葉があるよな」
「もし婚儀の前に先のお言葉を頂ければ、そういたしました」
「へぇ」

片眉を上げて、ナッシュ様が試すようにわたくしを見つめました。晴れ渡る夏の空のような、おぞましささえ感じさせる、何でも透してしまいそうな青い瞳。その中にあって悪戯をする幼子のような光さえ窺えるものですから、わたくしはふすりと軽く声に出して笑いました。

「…一つだけ、見知った習慣がほしかったのです。お気を悪くなさいました?」
「本当にそれだけが理由だったらな」

流石、と申しますと失礼でしょうか。ナッシュ様はわたくしの言葉が本心の全てではないと察しておいでのようでした。緩やかに瞳を細め、首を傾げてわたくしの顔を覗き込むようになさって、こう仰るのです。

「だが俺はお前がそれだけでわがままを通すような女だとは聞いてねぇ」
「…まぁ。それではどのような女だとお聞きに?」
「常に他者と民衆を思いやる、王侯貴族の鑑のような女だと」
「あら…」

こちらの国にまでその噂が届いていたとは、どうやらわたくしの外面はなかなかに立派に構築されていたようでした。わたくしがそうしていたのは早く縁談を受け入れてあの家を出たかったからですが、嫁ぎ先で疎まれるよりはずっと心持ちも良いので、結果としては良かったのでしょうか―――

「実際、それも違っていたようだが」
「―――……」

バレていました。少なくともナッシュ様にはバレておりました。わたくしがしぱりと瞬いて首を傾げると、ナッシュ様はくつりと小さく小さく微笑まれました。



++++++



首を傾げたウェーラは心の底から不思議そうな顔をしていた。思わず笑うとそれも意味がわからないと言わんばかりに瞬くから、どうやら俺の鎌は的確にウェーラの外面を剥いだらしい。
婚礼の時から俺の琴線を刺激していた違和感を解消するための、本当にただの鎌かけだった。これでこいつが笑って受け流すようだったらそれで退こうとも思ったが、その必要はどうやらなくなった。
じぃ、と視線を交わして幾許か。ウェーラが薄らと苦笑して、小さく頷いた。

「…そうですね。それはただの外面です」
「だろうな。婚礼の時から違和感があった」
「まだまだ精進するべきですね」
「必要ねぇだろ」

そうだ。必要ない。ウェーラがまた首を傾げたのを見やって、心の中で反芻する。
顔を合わせてからずっと、ウェーラはどこか遠くを見るような目をずっとしていた。そこにあるものを見ていなかった。それがあの違和感の原因で、社交場や会合で見ていた仮面のような笑みとは決定的に違うところだった。
では、今は。俺が爪に口出しした時から、ウェーラはきちんと俺を見ていた。ずっと、顔も知らない誰かと結婚したという事実だけを見ていたのに、だ。思うにこいつは、根が正直なんだろう。あいつと同じで。異国の騎士団に仕える友を思い浮かべる。

「…とにかく、お前は正式に俺の妃になった。何か不都合があれば言え」
「…えぇ、何かございますれば、お言葉に甘えさせて頂きます。…お心遣い、痛み入ります」

ゆったりと頭を下げたウェーラから視線を剥がした。今のところ何も言われない。つまり今のところこいつはこの国の者に頼る気はない。こいつの父親の性格を鑑みるに俺達双子を絆す事を命じられていたとしても不思議ではないのだが、この態度だけではどうなのかわからない。
ウェーラがすっと顔を上げて、きょろりと周囲を見渡した。居心地悪そうな、さっきの表情。正直に言えば俺も居心地の悪さを感じている。今まで一人で使っていた部屋が二人用になるのだから、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。とはいえそれが不快感を伴ったものではない事が、救いと言えたか。

「…部屋」
「え」
「用意させるか」
「…ナッシュ様がそうなさりたいのでしたら、そのように」
「俺が訊いたのはお前の意思だ」

ウェーラがただただ隣に立って飾りのように微笑むだけの妃だったら、そうか、と流して別室を用意させた。そうしないのはこいつが存外、自分の心を隠す事をしない女だったから。ついでに言えば、多少なりと好感を持った相手を無碍に扱う趣味は、俺にはない。
微かに考えるような素振りを見せたウェーラは、では、と薄く唇を開いた。

「このお部屋に滞在させて頂きたく存じます。…もしお邪魔でしたら、すぐにでも叩き出して下さいませ」
「いちいち余計な事を」
「申し訳ございません」

ちっとも悪びれた様子を見せず、ウェーラはころころと笑った。
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