鮫とじゃじゃ馬
これを根性で書き上げた代物。
※読まなくても特に問題はありません。




塩素臭い水面に浮かび、凌牙はぼんやりと天井を見上げた。誰もいない屋内プールでは無機質な天井しか見る事ができず、水を循環させる無機質な音しか聞こえない。

(つまんねぇ)

はぁ、と溜息を吐いても何の慰めにもならない。ベッドの上で寝返りを打つように身を反転させた凌牙は、ざっ、と半端に途切れる音を聞きながら水の中に潜り込んだ。
機械で管理されているとはいえ、流石に水は冷たい。かぽろかぽろと自分の周囲にだけ響く水の音を聞きながら、また溜息を吐きたい気持ちに駆られた。そんな事をしても、耳障りな濁った音を立てて大量のあぶくが立ち上るだけだから、水の音を壊したくない凌牙は長い睫に縁取られた瞼を半分ほど落とすに留めた。
海のように深くないプールの水を蹴り、暗い水の中をゴーグルもなしに泳ぐ。ぽろぽろぽろん、と調律されていないハープのような音を立てる水に、苛立ちが微かに鳴りを潜めた。
しかしそれも、プールの端に着くまでの話だった。無機質な壁の感触は、どうにも凌牙の心をざらつかせる。

(…つまんねぇ)

ざぶりと音を立てて水面から顔を出した。ぼたぼたと水の滴る髪が垂れ下がって重い。身体も、お世辞にも軽いとは言えなかった。このままプールサイドに上がれば、ぐらついてしまいそうだ。―――有体に言って、疲れている。それも、「疲労」という一言で済ませるのが難しいほどに。
とぷん、と微かな音を立てて凌牙は水中に戻った。思ったよりも疲弊しているらしいこの身体は、今は水中に在った方が楽だ。
底に手がつく前に身を翻して水面を向き、ゆらりゆらりと手を動かしてその水深に身を置く。深海のような暗さと塩素の混じった人工的な水の感触は非常にアンバランスで、凌牙はもう何度目ともわからないが溜息を吐きたくなった。
こんな場所で行う授業を楽しみだというクラスメイト達の気が知れない。水族館で飼育される魚のように、決められた範囲で、決められた場所で、決められた形状の中を泳ぐ事の、一体何が楽しいのだろう。追跡用のチップを埋め込まれて放流される亀や鮫の方がまだマシだ。
くるくると人工的な水音を聞きながら、狭いプールの中でじっとたゆたいながら、凌牙は今度こそ溜息を吐いた。ごぼぼぼぼ、と濁った音がして泡が一斉に水面を目指し、大きなものは真っ先に弾け、小さなものはぷちぷちと合体して、ある程度の大きさになると弾けた。
凌牙は決して水が嫌いではない。もし水を嫌っていたら、親にわざわざ水属性のデッキを強請る事はなかった。
だが、こういう人工的な水は嫌いだ。水槽の中で飼われるような錯覚を起こす。大人数でこの広くも狭苦しい水槽を埋め尽くす授業など、生簀に放流される稚魚の群のように思える。そこへこの塩素臭さだ。気分が悪い。
それでも水というものは何故だか凌牙を落ち着かせ、海に浮かんで見上げる空は鮫肌のようにざらざらとした凌牙の心を癒した。
海開きには遠く、一人で海に浮かぶなどホラーでしかない、と塩素臭さを我慢して水に触れる事を望んだ結果―――予想以上のつまらなさに、凌牙は嘆息する事となった。
プールの水は海や川のそれとは全く違う、水銀のような感触で凌牙の心を無機質に撫でるし、広い窓や天井から見える夜空は額縁の中の絵を見ているようでやはり無機質だ。

「……、…ら?」

ぱしゃん、と水面から顔を出した凌牙は不意に人の声を聞き、ぐるりと振り返った。それだけの動きでくらりと身体が揺らぐ。

「神代くん…?」

あまり覚えのない顔が視界に入り、次いでぼわぼわとダブって聞こえたのはやはりあまり覚えのない声だった。とはいえ同じクラスで、それも頭が良いと評判の少女だったから、さして興味は持たなかったが名前は覚えている。確か、御園、天音。
凌牙がプールの中からじぃと見据えると、彼女は奇妙な顔をしてからゆったりと笑みを浮かべた。

「神代凌牙くん、ですよね? 同じクラスの、御園天音です」
「あぁ、知ってる…」

気だるく答えて一度潜り、プールの端まで泳ぐ。プールサイドの手摺りを掴んで身体を引き上げる。それ以上距離を詰める事もなく、手摺りに寄りかかって緩くその双眸を細めた。眼前の少女はにこにこと愛想良く微笑んでいて、しかしその笑顔はまるでつくりもののようだった。

「…優等生がこんな時間に何してんだよ」
「水着を忘れたんです。右京先生が近くに住んでますから、鍵を借りてここに来ました」
「………」

凌牙は男女どちらのロッカーにも立ち寄らず、直接プールに来て服も脱がず水に身を沈めた。なるほど忘れ物など気付かないわけだ。それでなくとも、女子用のロッカーになど立ち入る気はないのだが。

「…それならどうしてここまで来てんだよ。ロッカーで済むだろ」
「だって物音が聞こえましたから…誰かいるのかと思って。もし生徒だったら、早く帰った方がいいですよって言おうと思ったんです。…あ、これ使ってください。風邪引いちゃいますよ」

差し出されたタオルを一瞥し、鼻で笑って視線を引き剥がした。「心優しい優等生」の気遣いなどいらない。
しぱりと瞬いた天音は、不思議そうに首を傾げながらもバッグの中にタオルを戻した。

「…あんまり水の中に長くいない方がいいですよ。身体を冷やすと毒ですから」
「………」

代わりとばかりに頂いた諫言に眉根を寄せて天音を睨むと、彼女はゆったりと一度微笑んでぺこりと頭を下げた。

「それじゃあ、私はこれで。一階の非常口の鍵を開けておきますから、そこから帰って下さいね」
「―――……」

その時に何故そう動いたのか、後になっても凌牙は理解できなかった。
璃緒のそれよりいくらかは肉の感触のある、それでも男と比較すれば驚くほど細い手首を掴み、振り返った天音の目が見開かれているのを認識するより早く、その足に自分の足を引っ掛けてプールサイドに押し倒した。疲れている割には、随分とすんなり動いた。
優等生は運動神経も良いらしく、彼女はバランスを崩しながらも咄嗟に片手をついて受身を取った。が、顔を顰めた辺り、手首を捻ったか何かしたのだろう。凌牙には関係ない。

「…神代くん、どうしたんですか」
「…仮にも思春期の女が、誰もいねぇ所で男に会って無事で済むと思うのか」

怪訝な表情を浮かべる天音を見下ろしてわざと凶暴な笑みを見せる。ぽたぽたと髪から落ちた人工の水が、彼女の髪を、服を濡らした。
天音は目尻に落ちた一滴に片目を閉じながら、ざりざりと音を立てて首を傾げた。

「神代くんは、そんな事しないでしょ?」
「…押し倒されておいて、結構な余裕じゃねぇか」
「だってそんな事したって噂、一回も聞いた事ありませんもん」
「人の噂なんかあてにならねぇって、この状況でよくわかるだろ」
「じゃ、そんな事を言いながら一向に手を出そうとしないのが何よりの証拠って事にします。あとね、神代くん」

ぐっと天音の顔が近づいた。と思ったら額から後頭部に突き抜けるような鈍痛をくらりと感じ、悲鳴を上げる事さえできない凌牙は自分の身体が軽く浮き上がるのを感じた。
次いで聞こえた、半端に途切れる水没の音と、泡が立ち上る音。ぐらぐらと揺れる頭を抱えながら我に返って、水面から顔を出す。

「テメッ…!」
「私、そんなに疲れてる人に抵抗できないような、大人しい性格じゃないんですよ!」

怒鳴ろうとした声は、プールの入り口まで走り去った天音のそんな声に掻き消された。踵を返す一瞬の間に見えた彼女の額は赤かった。

「…優等生どころかとんだじゃじゃ馬じゃねぇか…」

プールサイドの縁に寄りかかった凌牙は額を押さえて溜息を吐いた。
緩やかに弧を描く、血色の悪い唇に気付く者は、誰もいない。



(記憶が戻る前のふたりが、一度だけ話したのがこれ。です)
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