マンナズ
「もうやだこの天然セクハラ少将!!!!!」

パァン、と清々しく響く音を伴ってランブロスの頬が引っ叩かれた。我に帰ったナナシがあっと声を上げるが、彼の表情は―――綺麗に紅葉のような腫れができている事と、ほんの少しばかり紅玉の目を丸くしている以外は―――あまり動いていない。

「…あー、えっと、ランブロス少将…」
「………」

ゆるり。ランブロスが再びナナシと視線を合わせる。途端、彼女の背筋をよくないものが駆け抜けた。何故って、眼前の将官からは表情が窺えないのだ。痛いほどに投げられている視線を覆うのは、冷静に戻されたいつもの無表情。
もしや怒っただろうか。正答防衛―――だとナナシは声を大にして主張する―――とはいえ、好意でこの艦に乗せてくれている将軍に、平手打ちをしてしまった。そして彼は、少なくとも彼女が知る限りでは痛みを悦ぶ気性の持ち主ではなかったはずだ。

「あ、謝りませんからね…!」

だから、こんな可愛げのない言葉がナナシからは落とされる。ほんの少しの黒味を帯びた、ランブロスの紅玉がしぱりと一度だけ瞬かれる。その視線を感じながら、半端に剥がれかけた寝巻きのボタンをナナシは大急ぎでかけ直した。
ややあって、ランブロスの生身の左手がナナシの右手を取る。しなやかで柔らかく争いを知らぬ掌はランブロスの頬を打った衝撃で熱を持っていて、種族柄さほど体温の高くない彼の手が緩やかに彼女の手から熱を奪っていく。
何をされるのかと身体を強張らせるナナシの腕をじっと観察した後、ランブロスは再度、この艦において異端であるヒューマンの少女を真っ直ぐに見つめた。どこまでも真っ直ぐに、そして真摯に。
相手は人外とはいえ見目麗しい男だ。ナナシの身体が緊張以外の感情で強張り始める。包むように彼女の掌を握っていた軍人の手が緩く下がって、今度は腕をくっと握る。

「やはり鍛えるべきだな。あまりにも非力だ」
「………」

ナナシは大袈裟なほどに脱力した。それを硬い掌で感じ取ったランブロスは、しかし眉一つ動かす事もなく言葉を続ける。

「貴殿が戦闘に関与する立場ではないのは重々承知している。だがそれにしても筋肉量が少ない。運動と食事は不可欠だ」
「…ランブロス少将」
「ん?」
「もっかい殴るよ」
「…先の平手の時も思ったが、失言だったか?」
「………」

空いたままの片手で顔を覆ったナナシは、珍しくも明確に瞠目したランブロスが首を傾げるのを見て盛大に溜息を吐いた。
平手打ちをしておいて、また殴ると言っておいて、説得力のない事だが―――彼女は少なからず、この強く聡明で心優しい将軍にとても感謝している。普段はあまり目にする事のないだろうヒューマンを乗艦させるだけでも隊からの反感があっただろうに、彼女がその中で肩身の狭い思いをする事がないように骨を折ってくれた。ヒューマンが生活するにあたって必要なものを取り揃えてくれた。賓客をもてなすように応じてもくれた。隊を束ねる将軍としての仕事もあろうに率先して厚遇してくれた相手に、これで心を動かされない方がおかしいものだと、彼女は思っている。
今こうしてナナシを押し倒して手首を押さえ込んでいるのだって、恐らくランブロスにしてみれば彼自身が言ったとおり「好意を示す」行動でしかないのだろう。少しは鍛えろという発言も、純粋にナナシの身体を心配しての事に違いないはずなのだ。

(なのにどうしてこんなに残念なのこの人…)

ヒューマンでもなければ生殖行動によって数を増やす種族でもないから、そもそも感情というものに疎いのだろうと、そう割り切るにはランブロスの一連の行動は些か感情的すぎた。だから、彼の生真面目な気性が本当に残念な方向に働いただけなのだろう、と彼女は思う事にした。
しかし―――冗談ではない。憎からず思っている相手に強姦されかかったなどと。その相手が海軍の将軍であるなどと。…その相手の言う「好意」が、どの類のものなのかが、ちっともわからないなどと。

「…ナナシ」
「うぁい…」

酷い声で返事をするナナシの手の甲を、ランブロスの機械の指先がつんつんとつついた。その行動には硬い感触が彼女に痛みを与えないように細心の加減がされていて、思わずナナシは手を浮かせて庇を作るように彼の顔を覗いた。やはりどこまでも真摯な瞳がそこにある。

「先ほど、順序が違うと言っていたが。あれはどういう意味だろうか?」
「…好意を示すだけなら言葉だけで充分ですし、肌を合わせるのは普通は恋愛感情が通じた二人で行う事です…合意なしで肌を合わせるのは強姦っつって犯罪ですよ犯罪…」

生真面目に逐一相槌を打ちながら聞いていたランブロスは、「ふむ」と小さく唸って再び顔を覆い隠したナナシを見下ろした。数秒もしないうちに握られていた腕が解放され、ナナシが指の隙間から彼を見上げる。

「確かに私は順序を間違えたらしい。貴殿に恋慕の情を抱いているのは事実だが、先の平手打ちがなければ罪を犯すところであった」
「…ん? あ、え? ちょっと待って下さいランブロス少将」

ぱっと退けられたナナシの手がランブロスの口元を塞いだ。律儀に口を噤んだ彼がすっと力を抜いたのを掌越しに感じて、緩慢に手を下ろした彼女は怪訝に首を傾げる。

「れんぼ、って。私の事が好きって事?」
「あぁ。…恋慕とはそういう意味だろう?」
「あ、まぁ、そうなんですけど、今初めて聞きましたよ」
「んん…?」

首を傾げて、ランブロスは緩く瞼を下ろした。伏せられた視線は焦点を結んではおらず、彼が記憶を辿っているらしいとナナシは予測した。
数秒の後、麗しい瞳をしぱりと瞬かせながら、あぁ、と彼は幾度か深く頷いた。

「確かに言った記憶がないな」
「うっわ何ですかそれ酷すぎる…」
「すまない。今この場で言おう。ナナシ、私は貴殿を愛している」
「今この状況でさえなければもっと恋する乙女らしい反応ができたのにコノヤロウ!!!」

うおおん、と仰け反って頭を抱えるナナシをランブロスは奇異な物を見るように見下ろした。その視線をざくざくと、痛覚を刺激されるような錯覚と共に感じながら、ナナシは大いに嘆く。
彼の好意がどの類のものであるかわからないなど冗談ではない、と思った。確かに思った。今し方思った。だがこの、間の抜けたような状況で知りたいとは思っていない。まだ成人しておらず恋に恋する乙女と言っても過言でないナナシにしてみれば―――。

「冗ッ談じゃないよもー!!!」

この絶叫に尽きる。その叫びを受けたランブロスがいくら怪訝な表情で顔を顰めていても、これがただの我が侭だとわかっていても、そのぐらいの権利はあると彼女は確信している。

「…私の言葉が足りなかったのは申し訳ないが、それほどに嘆く事か?」
「そうだよねランブロス少将はそういう人ですよね!! 知ってたよ!!!」

追い討ちのように彼の言葉が刺さり、投げやりに答えた。滅多に陸上におらずいくらヒューマンの文化や感情の機微に疎いとはいえ、ここまでとは思わなかった。
再びしばしの黙考を置いた後、ランブロスは小さく溜息を吐いて何事もなかったかのようにその身を退かせた。
騒がしく喚いていたナナシがぴたりと動きを止め、蝶番の軋んだ扉のようにぎこちない動きで寝返りを打ってランブロスを見やる。彼はベッドの隣、床に直接座り込んだらしく、存外近いところに視線があって、ナナシは身体が固まるのを感じた。

「私の認識が間違っていたのはわかった。すまない」
「あー…あ、いや、うん……こっちも大袈裟に反応しすぎたんで…」
「だがいつになったら許される?」
「…え、そうくる? そうきます!?」

許される事が前提か、とナナシは頭を掻き毟った。あの奇異な視線を再びざくざくと感じたが、そんな事は些細なものだ。
そしてぱったりとベッドにうつ伏せ、横目でランブロスを睨む。いい加減に怒鳴るのも喚くのも疲れた。

「…ランブロス少将」
「何だ」
「ヒューマンについていろんな意味でもっとよく調べたら考えます…よ」

その言葉を受けたランブロスの目がぎょろりと獰猛に光った気がするのは気のせいだという事にしておこう。



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