ウィン
たおやかな笑顔が印象的な恋人を、今までに三度、大泣きさせた事がある。
一度目は異世界から還った父に従い、復讐に身を投じると決めた時。実弟のように可愛がっていた弟子を突き放したのも、彼女には堪えたらしかった。
二度目はその弟子に負けて眠りに就いた後、魂が戻って目が覚めた時。あれはしかし、目を覚ました事に安堵した故の涙だったのだと、彼女は言い張る。実際がどうなのかは知らない。
三度目はバリアンとの戦いが決着した後、やはり消滅した魂が元に戻った時。子供のように泣き叫ぶ彼女を前に狼狽した事と弟達に白い目で見られた事は記憶に新しい。
他にも泣かせた事は、実は数え切れないほどにある。あるのだが、対処に困ってしまうほど泣かせたのはその三度だけだ。しかしなまじ笑顔の記憶が多いだけに、そのたった三度の記憶は私の心に大きく巣食った。あれから平和になった今でも、それは変わらない。

「…クリス、どうしたの?」

華奢な身体を後ろから抱きしめて頭に顎を乗せる。痛い、と笑いながら小さな文句が飛んだが、本気で痛がっているわけではない事を知っているから、笑い返して腕に力を込めた。
胸元で交差している腕をナナシの指先が軽く押さえた。押さえたというか、引き剥がそうとしているようだったが、それをさせないままに腕に力を込める。

「本当にどうしたの?」
「何も」
「…痛いわ」

顎の輪郭を彼女の指先が叩いた。姿勢の問題で全く力が入っていない。つまり、痛くない。しかし彼女の機嫌を損ねるのは本意ではない。顎を離して、次いで腕を解くと、長い服の裾を緩やかに翻してナナシが振り返った。

「…まだ気にしているのかしら?」

首を傾げてこちらを見上げる視線に苦笑した。まさか見透かされているとは思わなかった。私はきっと、一生かかっても彼女には敵わない。

「…あんなに泣かれるのはこりごりだ」
「今のところは泣かされる予定がないから大丈夫よ」
「私には元から泣かせる予定はなかったのだが」
「あら、私、貴方の事だなんて言ったかしら?」

そう言ってナナシは冗談っぽく笑う。やはり敵わない、と思う。
ナナシの細い指先が伸び、私の左目の目尻を撫でた。そこはD・ゲイザーの役割を果たす痣が浮かぶ辺りだ。涙を拭うような手つきが心地良い。

「…冗談は置いておくにしても、私はもう気にしていないわ」
「だが」
「だが、じゃないの」

軽やかに笑ったナナシの指が目元から移動し、私の前髪を軽く持ち上げた。次いで彼女が背伸びをし、それを受けて軽く屈むと目尻に唇が触れた。
音も立てずに姿勢を戻したナナシが慈母のように微笑んで、もう一度私の左目を撫でる。

「…私はあれでよかったのよ。家族でも他人でもない立場から、貴方達を勝手に心配して、勝手に貴方達を俗世に繋ぎ止める、そういう役目でよかったの。それが私の決めた事だったの。だからね、クリス。子供のように泣いてしまうほど貴方達を想ったのも、やっぱり私の勝手なのよ」
「…その理屈で言えば、それを気に病むのも私の勝手だな?」
「もう! ああ言えばこう言う…」

わざとらしくむくれて見せたナナシに薄く笑いを零し、改めて彼女を抱きしめた。彼女は細いが決して骨がましくはない。むしろ女性的な柔らかさに満ちている。亡き母を思わせるよう、とは言わないが、この感触には数え切れないほど安心させられた。
ナナシが慰めるように私の背を擦る。時折ごく軽い調子で叩くその手つきは、とても柔らかい。

「…ねぇ、クリス。我が侭を言ってもいい?」
「ん…? 構わないが、珍しいな」

控えめに腕の内側から上った声に首を傾げる。彼女とは幼い頃からの付き合いだが、我が侭らしい我が侭を言われた記憶はほとんどない。だが、そんな彼女自身が「我が侭を言う」と。これはとても珍しい。
はてどんな我が侭かと続く言葉を待っていると、ナナシが逡巡するように身じろいで、それから溜息と共にこう言った。

「…そんなに気に病むぐらいなら、私を一生傍に置いて」
「…ん」

これまた珍しく切羽詰まったようなナナシの声音に、自分の口元が緩むのを感じる。それを誤魔化すように、今度は私がナナシの背を撫でた。

「喜んで」

了承の返事と共に、ナナシのつむじにキスをした。微かに強張っていた彼女の身体が弛緩し、次いで小さく震え始めた。
どうやらまた泣かせてしまっているらしい、しかし、この涙はきっと、あの三度とはまったく別の意味の涙なのだろう。
至って穏やかな気持ちで、ナナシを宥めるべく細い身体を抱き上げた。泣きながら微笑むナナシは美しい。こつりと額を合わせるととても嬉しそうに笑みが深められた。



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