だいじょうぶ?
吐き気がする。心臓のある辺りが痛い。身体が重い。指先が痺れて上手く動かせない。人間界にいた時はこんな事はなかったのに、バリアン世界に帰ってきた途端にこれだ。何だこれは。辛い。
吐き気がしていてもバリアンの身体に口はないから吐けるものが何もないし、心臓が痛いからといってまさか自分の胸を掻っ捌くわけにもいかない。身体が重いのは対処のしようがない。指先の痺れは…適当にどこぞでごろごろしていれば誤魔化せるだろう。
だがごろごろしている所を見られたら、アリトやギラグには騒がれ、ミザエルには不快な顔をされ、ドルベにはとても心配される事だろう。ベクターは行方をくらましているからその辺りの心配はない、はずだ。ナッシュもメラグも、腹立たしい事にここに帰ってくるはずがないから、大丈夫、だ。
あぁドルベ達にしか見付かる心配がないとはいえ今この状態を見られる可能性は十二分にあるわけで、そうなったらどうしようか。今の頭で上手く言い訳できる自信がない。仕方がない、移動しよう。そう思って悪意の海の近くまで転移する。悪意の海の海岸まで転移するつもりだったが、途中で放り出されるように転移が解けてしまった。仕方なく、朦朧としながら、何度も躓きながら、重い身体を引きずるようにして歩いた。
悪意の海に着けば、幸いにして今は満ち潮だった。ならば近くで眠ったとしても、これ以上潮が満ちて波がかかって激痛に苛まれる、などという事もあるまい。それにこの海は私達には害になる。他のバリアンは滅多に近寄らない場所だ。そういう点では安心できるが、「滅多に」であって「確実に」ではない。誰かが来る可能性は否めないのだ。そして七皇に―――殊にドルベに見付かる事だけは、絶対に避けたい。
すぐにでも眠りにつきたかったがどうにか身体を動かし、岩陰に身を潜めた。指先だけだった痺れは全身を蝕んで震えてすらいて、岩陰に入る時には歩く事さえままならず無様に砂浜を這った。…どうせ誰も見ていないはずだ。知った事ではない。
ず、と身体を丸め、常は目深に被っているフードが降りてしまっているのも気にかける事ができず、私は目を閉じた。
吐き気も痛みも重みも痺れももう限界だったせいだろう。意識はすぐに落ちた。



++++++



アルコルの姿が見当たらない。それだけならいつもの事だ。彼女はよく姿を消す。行き先は知っていたし知った時に多少の苛立ちこそ感じたが、彼女の行動を制限するのは私の本意ではなかったから見過ごしてきた。
だが今回はおかしい。帰りが遅い。人間単位の時間で24時間が経過する前にはいつも帰還していたのに、戻らない。いつもいる場所を探しても見付からない。
アリト、ギラグ、ミザエルには既に居場所を聞いた。アリトとギラグは人間界に赴くアルコルの姿を見たとは言っていたが、その先は知らない。ミザエルは非常に不快そうな顔をして「またか」などと言っていたのでまず間違いなく彼女の姿を見ていない。
残りの三人は今この場にはいない。となると私は単独で彼女を探さなくてはならない。彼女が野垂れ死にするなどありえないだろうとわかってはいるが、ナッシュとメラグの前歴もある。楽観視はできない。
しかしどうやって探す? そもそもアルコルはバリアン世界に戻っているのか? まだ人間界にいるのではないのか? よしんば戻っていたとしても、この世界は決して狭くはない。それでもアルコルの行きそうなところがわかれば探すあてにできるが、残念な事に私は彼女の行きそうな場所を知らない。
どうしたものかと考えながら、とりあえず手当たり次第に探し始める。バリアン世界にいなかったら、多少の不自由はあるが、人間界に行って探せばいい。そう思って。
転移してはアルコルがいない事に落胆と憔悴を感じ、別の場所に転移し、それを続けてしばらく。一番見付かってほしくない場所―――悪意の海で、不規則な足跡を見つけた。あぁ、だが、それが海水には向かっていないのは救いだ。
半ば消えかけている足跡を注意深く辿り、更にしばらく。足跡が足跡ではなくなり、代わりに何かが這いずったような跡があった。
足跡よりは深く残っているその跡を辿っていく。岩の乱立する場所に続いていた。そのまま、辿る。
岩ばかりで視界の悪いその場所で―――見覚えのあるフードの裾が砂浜に波打っていた。
岩陰を覗き込めば、果たしてそこにはアルコルが力なく横たわっていた。死んでいるようにさえ見える、が、小さく震えている身体を見てすぐさまその可能性を否定した。生きている。よかった。
私は自分のフードだけを脱ぎ、目を覚まさないアルコルの上に被せた。下に着ている滅紫のローブはいつも身に纏っているもののはずなのに、単独で見ると少々妙な気分になる。
さておき。普段は滅多に見せない顔を晒して眠る、というよりは気を失っているように見えるアルコルを見ても、どこか安全な場所に移そうという気にはなれなかった。
倒れたという事は相応の理由があったのだろう。そして彼女が戻ってこなかった理由は、この姿を見せたくないと思ったからだろう。私達が忌避する悪意の海ならば見つかる事もないと、そう思ってここに来たのだろう。彼女は誰かに弱った姿を見せる事を嫌うような、そんな性格の持ち主だ。だから私はアルコルを別の場所に移す事に抵抗があった。
もしかすると私に見つかる事こそが彼女にとっては疎ましい事なのかもしれなかったが、生憎と私は同胞を捨て置く事ができない。アルコルには申し訳ないが、このまま傍にいさせてもらおう。
私はその場に腰を下ろし、小刻みに震え続けるアルコルを見下ろした。



++++++



どうやらバリアンでも夢は見れるらしい。バリアンになってから睡眠をした事がないので今まで知らなかった。
随分と幸せな夢を見ていた。ドルベと二人でポセイドン海の連合国へ赴き、ナッシュとメラグと談笑し、ナッシュとドルベが手合わせをするというからメラグと私は二人で観戦しつつ、互いの近況について話し合う―――というような、夢だった。何だか妙に詳しく覚えている。似たような情景を過去に何度も体験したからだろうか。
懐古趣味はないつもりだ。しかし意識を失う直前まで人間界にいた事を考えるとどうにも感傷的になってしまう。
身体の痛みはほとんど消えている。それでも痺れと重さは残っているし吐き気も治まってはいないが、これくらいなら堪えられる。…もう戻ろう。戻って誰かと話していれば、この感傷も、不調も、多少は紛れるだろうから。話す相手は、ミザエルがいいかもしれない。人間をこれ以上なく嫌う彼は私の不調の理由を聞こうとは思わないはずだから。
まだ重い瞼を持ち上げ、丸めていた身体を伸ばして地面に手をついた時、今一番聞きたくない声が降ってきた。

「目が覚めたか」
「っ!? ……!!」

自分のフードを跳ね除ける勢いで起き上がった、つもりだった。実際は地面についた手に力が入らず、無様に転んだ。その拍子に私の視界に入り込んだのは、見慣れた白いフード。私にかけられている。

「…大丈夫か?」

もぞもぞと遅々とした動きで寝返りを打って声のした方を向けば、濃灰色の瞳でじっと私を見据えるドルベと視線が絡んだ。よく考えなくとも、私の身体を覆っているフードは彼のものだろう。いつもは白に覆われているはずの滅紫のローブしか、彼の身を覆っているものがない。

「…どる、べ」
「…あまりにも帰りが遅いから心配した」

溜息を吐くように肩を落としたドルベがぐっと前のめりになり、私の頬に触れた。あぁ、そういえば、倒れ込んだ時にフードが降りてしまったのだった。
抵抗する気もなくされるがままにしていると、つ、とドルベの目が細められた。

「身体はどうだ」
「……つ」

つらい、と言おうとして、黙った。恐らくもう手遅れだろうが、黙った。
耐えられないほどの不調ではない。痛みだって消えた。だが、身体はまだ微かに震えているし、痺れも残っているし、身体は重いし、そもそも起き上がれないし、どう考えても大丈夫ではない。辛い。だが、ドルベに向かって弱音は吐きたくない。そもそもこんなところを見られたくもなかったのだ。だが、だからといって嘘も、吐きたくはない。

「…動けるか?」

黙りこくった私に、ドルベはほんの少し質問を変えた。動けるといえば動ける、が、恐らくドルベの聞きたい事はそうではない。きっと、先の質問と変わらない意味合いだろう。彼が重ねて追求するなど珍しい。それほど私の様子がおかしかったのだろう。となると私にはもう重ねて黙秘する事も否定する事もできず、ゆっくりと首を横に振った。そうか、と呟いて、ドルベはしばし考えるように首を捻った。

「…君は、その状態を誰かに見られたくはないだろうな」
「…あぁ」
「ならば回復するまで付き添おう」
「……だが」
「嫌かもしれんが、その状態の君を放ってはおけん」

咎めるような言葉はなかった。彼は私が度々人間界に赴いている事を知っている。知っていて、いい思いはしないだろうに、こうして心配までしてくれる。
頭の下がる思いで目を閉じ、ゆっくりと身体を丸める。人間で言う背骨のある辺りがギシギシと妙な音を立て、その音に伴って桐で刺すような痛みに襲われた。痛みは消えたんじゃなかったのかと思うが、声は上げない。弱音は、吐きたく、ない。だが、あぁくそ姿勢なんか変えるんじゃなかった、ぐらいは思った。
そもそもこれでは何のために悪意の海なんぞに来たのかわからん。ドルベに、ひいては他のバリアンに見つかりたくなくてこんな所に来たのに、よりによって一番見つかりたくない相手に見つかった挙句こんな醜態を晒している。…まぁ、ドルベに会えたのは正直なところ僥倖なのだが。それでも、悪態や毒の一つでも吐きたくなるような気分にはなった。
ドルベが移動したのだろう、さふ、と音が聞こえて、―――背に、何ぞ当たる感触。驚いて目を開けると、ドルベが身を乗り出すようにして私の背を擦っていた。

「…何、を、している…?」
「…手当て、という言葉は手を当てるところから来ているらしい。…人間に倣うのは少し癪だが、君が少しでもよくなればいいと思ったんだ。嫌ならば言ってくれ、すぐにやめる」
「………」

嫌なわけがなかった。首を横に振って、再び目を閉じた。
ドルベの触れた辺りがふわふわする。背の内側に感じていた痛みが緩やかに引いていく、ような気がする。心なしか吐き気もほんの微かに鳴りを潜めた。…それがただの錯覚だとしても、心地いい。
ドルベはおっかなびっくりといった調子で何度か私の背中や肩、腕に触れている。手を当てるだけで「手当て」と呼べるのならこれは確かにそうだろうが、それにしても動きのぎこちなさが凄まじい。
そういえばドルベは昔から、何かと気遣いをするくせにその気遣いが正しいのかわからなくて戸惑っていたなぁ、と考えながら、私は身体の力を抜いた。
少なくとも拒否を示さなければ、まだこの状態でいられるから。





(バリアン世界→人間界の移動でバリアンの身体が人間態に変わる、という事は逆もまた然りという事で。)
(環境も身体も急激に変化するのなら、それを頻繁に繰り返していたら体調を崩しそうだなぁと思って。)



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