甘味のおまじない


ガレージの入口付近の壁に張り付き、顔だけ出して中をこっそり覗う。そこには私の予想通り、静かながらも熱い眼差しでDホイールをいじる彼がいた。邪魔するのは気が引けるから此処にいる。それは間違いではないのだけれど、私は何より、タンクトップ姿で作業に夢中になる彼の姿が好きで、いつもこうして暫く眺めてしまう。

「名前」
「! ジャック!」
「ここで何をしている」

いつの間にか私の背後に立っていたジャックに驚き、とっさの反応で抱えている物を背中に隠す。

「こそこそせずに入ればいいだろう」
「あ、うん、わかってるけど…」
「遊星! 名前が来ているぞ!」

自分のタイミングで行きたかったのに。
ジャックの声に遊星は、額の汗をぬぐった後振り返る。私が遠慮がちにお辞儀したのをみて微笑んだ。
ガレージに入って香る、熱の籠った鉄の匂い。彼のバイクは、とても丁寧に扱われているとバイクにまったく興味のない私にもわかる。

「来ていたのか名前。気が付かなくてすまない」
「ううん! ごめん連絡も入れないで来ちゃって」

付き合ってると言えど、まだ一ヶ月の私達は、会話や態度がふわふわしてる。その甘酸っぱさはいつもチクチク胸に染みるけれど、いつかこの感覚はなくなってしまうのかと思うとちょっぴり寂しい。

「少し待っててくれないか?シャワーを浴びてくる」
「え?どうして」
「ガソリンと鉄の匂いがきついと名前に申し訳ない」
「そんな。気にしなくてもいいのに」

俺が気になるんだ。遊星はそういって机にあったビニールから、ペットボトルを取り出して私に渡した。遊星のそういう気遣いが出来るところが、堪らなく好き。
机に荷物を置き椅子に腰かける。そうだ。飲み物あるし、調度おやつ時だし、これを渡すのにおあつらえ向けかもしれない。



「お帰り」
「ああ、またせた」

遊星は首にタオルを巻いて帰ってきた。水を含んですこし垂れてる髪の毛と、シャワーに打たれて赤くなってる顔。滅多に見られないお風呂上りの遊星にドキリとしながらも、本題を思い出す。

「はい、遊星」
「? これは…」

私は二つの箱を彼に差し出すと、遊星はきょとんとした顔で受け取った。

「今日バレンタインデーだから、遊星に」
「!、そういう事か」

物珍しそうに箱の横や裏などあらゆる方向から見つめる。

「聞いたことはあったがもらうのは初めてだ」
「そうなんだ」
「でも、どうして二つなんだ?」
「ああ…えっとね、どっちも手作りなんだけど、一つが甘いのでもう一つがビターなの。遊星大人っぽいから甘いのよりビターなのがいいかなって思ったんだけど、やっぱり甘いのも渡したくて…」

でも甘い物苦手だったらどうしよう。ビターなやつも作ったから大丈夫だろうけど、一つ目のはトリュフだからかなり甘みがある。

「どっちも嬉しい。ありがとう名前」

ニコリと笑う優しい遊星を見れば、そんなことも杞憂に思えてしまう。
遊星は私の隣の椅子に腰かけて、私の手作りのチョコを口に運んだ。

「どう?」
「甘くておいしい」

柔らかく笑う遊星を見て、作ってよかったと心から思えた。遊星の行動は私を一喜一憂してしまう力があり、それに従順な私は、なんて単純なのだろう。

「こっちは少し苦みがあるんだな」
「そう。レシピに、大人に人気って書いてあったから」

もう一方のチョコレートも開けて口に運ぶ。それは大人の品格を漂わせるワインボトルのような形に流したお洒落なチョコだ。遊星はお腹が空いていたらしく、直ぐにすべてを平らげる姿は見ていて気持ち良かった。

「ごちそう様、うまかった」
「えへへ、それならよかった」
「あまり詳しくなくて悪いんだが、お返しの日もあるんだろ。なにか欲しい物あったら事前に教えてほしい」
「んー…でも、気持ちだけでもうれしいよ!」




・・・





「もうすぐ夕飯の買い出しにいくか」
「もうこんな時間か…」

他愛もない話をしていたら、辺りはすっかり赤い陽に包まれていた。
遊星が椅子から立ち上がった、その時。

「!」

頭が大きく揺れ、机に手をついた。

「遊星!?」

私はとっさに遊星に駆け寄り肩を抑える。

「ど、どうしたの?」
「…す、すまない。視界がゆがんで…」

もう一度自立すると、かろうじて立てるものの、歩むごとに右往左往と体が揺らめく。

「なん、だこれは」

はっとある事を悟った。私は遊星が食べたビターなチョコレートを作った時の事を思い出す。入れた物はたしか、カカオパウダー、ココアバター、食塩、ラム酒………ラム酒!?まさか、香りづけで使ったラム酒が原因!?

「遊星ごめん!苦い方のチョコにお酒入れたの…!」
「そう、だったのか」
「どうしよう、少し横になって休んだ方がいいかも…」

取り敢えず買い出しは私が行くとして、遊星にはベッドに横になってもらおう。
佇んでいるだけでぐらぐらしている遊星の肩を抱き、共に部屋まで歩く。

「すまない、名前」
「いや、私が悪いの。本当にごめん」









遊星を抱えながら部屋に入る。手が開けられないので電気を付けないで遊星をベッドのふちに座らせた。座ってもなおふわふわして視点が定まってないようだ。

「大丈夫、遊星?」

部屋に来るまで何も喋らないので昏睡寸前なのかもしれない。風邪ひくと危ないからパーカーでも羽織らせたいけれど、棚とか勝手に開けちゃダメかな。だったら寝かせて布団重ねた方がいいかもしれない。
遊星をベッドに横へさせようとした時、

ぐいっと右手を掴まれた力により、ベッドへ倒れた。倒れた衝撃に目がチカチカしているけれど、その瞬きが終わると、目に映るのは天井と、虚目にのぼせたような顔の遊星がいた。

「やさしいな、名前、は」

凄まじい混乱により言葉すら忘れた私は、そのまま近づく遊星の唇を受け入れた。重なるだけのキスから、次第についばむキスに変わっていく。唇の間から至極優しく入ってくる舌が、私の元へたどり着き、身を絡ませる。
私は遊星と数えられるぐらいのキスしかしたことない。そしてこんな濃厚なキスは、きっと初めてで、この後どうすればいいのかも、この高揚としてくる気持ちもどう対処すればいいのか分からない。

「はっ……ゆ、ゆうせ…」

離れたかと思いきや、遊星は首筋に顔をうずめる。ちゅっとなる水音に、とてもじゃないけど、いやらしい事をされていると自覚してしまい途端に恥ずかしくなる。

「え、えっ!ゆ…、んっ!」

抵抗を加えるが当然男子である遊星の力には敵わず、そんな私に遊星はふふっと笑った。

「焦ってる姿も、可愛い」
「…っ!」

酔ってしまったからこんな事するのか。酔ってるからそんなこと言うのか。暴走に似た行動を取る遊星に目が回る。でも正直嬉しくないはずがなく、されたいという気持ちが出てきてしまう。でも私は、これも、これ以上の事も、遊星の意識がはっきりしている時にしたい。
キスしようとしてきて私は顔を横に逸らす。それでも遊星は追っかけてキスをして来ようとするけれど、必死に避ける。

「なんで、キス、させてくれないんだ?」
「遊星がへんだから!」
「へんじゃない。俺は、いつも名前としたいと思ってる」

今すごいこと聞いてしまった。普段手も繋ぐのも躊躇うあの遊星が?
途端に静かになった遊星に不穏に思う。私は大人しくなった遊星の背中に手を置き様子を覗うように彼を呼んだ。

「でも。あまり求めすぎると、怖いんだ」
「…?」
「嫌われ、そうで」
「……!」

糸のように細い声は、抱きしめられて消えた。

「俺は女性の扱い方は分からない。だから何処までが許されるのか、いつも悩んで、……結局何もできないんだ」

だから普段キスもそんなに求めないのだと、私が日頃不安に思っていた要素が解ける。消えた不安の場所には甘い気持ちが心に沁み込み、とたん私も彼に触れたくなった。彼が酔って私に触れて来た時のように。

「嫌いになるわけ、ないよ」

遊星の顔に手を添えキスをする。私はそのまま首の後ろに手を回し、いつもより小さく感じる背中を抱きしめた。

「だからこれからも、今みたいにいっぱい甘えて?」
「……ああ、わかった」

そして嵐のようにキスをして、私の口内に広がるラム酒に酔いながら遊星を抱きしめ続けた。




静かな寝息が聞こえる。私は寝静まった彼を起こさないようベッドから降りて彼に布団を掛けた。お酒のせいだとしても、距離が縮まって何よりだった。

きっと彼は素面になったら、今の事思い出す時、顔を真っ赤にして恥ずかしがるんだろうなぁ。今見る未来すら甘酸っぱくて、なんだか胸がいっぱいだ。

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