Chapter 3


 助祭が杯を運んでいく。司祭は祈りを紡いでいく。色彩の並ぶ椅子の端に助祭が辿り着く。そこには深緋の青年がいる。司祭によって奏でられている祈りに喘鳴が交じる。助祭の紫紺の目が憂慮に揺れた。椅子に座ったまま銀盆から杯を取った深緋が祭壇へと眼を移す。
 少女の手が柵を握る。艶やかな黒髪が流れる。それまで人形のように佇んでいたエメリが柵から身を乗り出しかけているのを、ヴェイセルは見る。
 司祭の身体が傾ぐ。説教壇から崩れ落ちる老人の、ひどく桃色がかった指が、啓典にひっかかり、崇めるべき戒律を床に落とす。駆られた焦燥のままに踵を返し、リカルドゥスはオロフに駆け寄る。投げ出された銀盆が祭壇の奥へと転がっていく。黒衣の襟元を掴み、床を這いずり悶える老人を抱き起こそうとする異民族を、杯を手にしたまま、静謐な蒼をもってアンスガルは眺めていた。
 聖堂を満たしていた、それまでざわつきでしかなかった騒がしさが、さざめきを引き裂くような悲鳴があがったことによって恐慌へと代わる。リカルドゥスが手を貸してくれと声をあげるが、何度もあがる叫びはその度に聖堂を覆っている狼狽によって塗り潰された。誰の口からあがったとも知れぬ悲鳴は瞬く間に連鎖し、何が起きたかを確かめるよりも先に混乱だけが表層に渦巻く。
 聖堂での展開に、ヴェイセルは訝しげに眉根を寄せた。少女たちを視界に捉えながら歩み寄ってきたヴァースナーが舌打ちする。

「妙だな。下の階、後の方にいる奴らには何が起きてるのかすら判らないだろうが。このあたりですら、人混みのせいで進むのはままならなくとも、我に返って階下に行こうって奴が出始めてるくらいだ。前の方の奴ら、幼子はともかく、なぜ、誰も司祭を助けようとしない」

 騒然とした聖堂を背に、リカルドゥスはオロフを仰向けに寝かせ、その襟を緩める。朦朧とした蒼の目を彷徨わせながら、老人は浅い呼吸を繰り返した。繰り返してはいるが、それが呼吸という動きの真似事でしかないことは明白で、老人の四肢の末端が細かに震え始める。

「杯だ」

 どこからともなく響いた声が、混乱と動揺に波打っていた聖堂に楔を打ちこんだ。司祭が乾した杯には毒が盛られていたと声は続ける。祭壇にある空の杯に人々の目が集まり、判断の材料を拾えないでいる彼らに、滑舌にして闊達な声は展望を与えた。

「聖具たる杯に触れられるのは誰か」

 朗々と響く声は宙づりの人々を導く。導かれた槍の先にいる助祭は片腕で老人の頭を反らし、細くとも息の道を得ようと奮闘している。途絶した祈りに狼狽していた人々は、明朗な声に導かれ、祭壇へと押し掛けた。背後から押し寄せた人の波に、椅子に並んでいた色彩が散っていく。激流に跳ね飛ばされた椅子から泰然と腰をあげた深緋を纏う青年の、癖のある白銀の髪が揺れた。老人の脚が撥ね、黒衣が乱れる。痙攣する司祭の名を呼びながら、助祭は老人に覆い被さる。説教壇を押し流した人々が、祭壇に当たって倒れていた銀盆を踏む。人の波は迫るだけで返すことをせず、動くことを停めたオロフの上で放心する異民族を呑みこんだ。

「リカルド!」

 助祭の名を叫んで駆け出した侍女の腕をエメリが掴む。腕を掴まれていてすら柵を越えようとするテアの眼の先で、司祭から遠ざけるために蹴り転がされ、周囲に隙間なく並んだ人々に足蹴にされる黒の、自身を庇うために挙げられた義手が、砕けて飛んだ。振り下ろされる拳と踏み躙ってくる靴により、リカルドゥスは立ち上がろうとしても頽れるしかない。エメリは力を籠めてテアの腕を引き、ちいさな侍女をその胸で抱きとめる。侍女の視界を白藍で塞いだまま、エメリは階下を凝視した。

「どうして」

 胸元で繰り返し生まれる問いへ、エメリは答えを与えられない。水底に沈められながらも浮き沈みを繰り返す麦粒であるかのように、いたぶられ、潰されかけている異民族が、人海という奔流に浮いたその一瞬、腫れた瞼に狭められた視界の中で、レドルンド家の少女を捉えた。澄んだ紫紺が少女の蒼と出会う。その一瞬において、澄んでいてすら霞みがかっている紫紺の片目が、やわらかく蕩けた。

「マデリエネ様」

 恭しく、思慕をもって、欝血した唇がかたちだけで紡いだ名に、エメリは瞠目した。しあわせそうに微笑みながら殴打の渦に沈んでいくリカルドゥスを見つめ続けるエメリの蒼の目を、背後から、男の手が塞ぐ。少女は息を詰めたが、男の手を引き剥がすことはしなかった。ふたりの少女を周囲から庇うように立つ男は、眼鏡越しに階下の狂騒を見据える。
祭壇の蜜蝋は鮮やかに燃え盛り、啓典を踏み拉きながら繰り広げられる滑稽な寸劇の黒々とした影を聖堂に刻みこんでいく。

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