Chapter 1


 すべての音を呑み尽くす雪原に似た静寂に鼓膜は圧され、そのあまりの冷ややかさに意図せずとも強張る肌が宵闇の昏さに映える。
 ひとりで棲むには広大すぎる館の一室に、この館の主たる亜麻色の髪の青年が長椅子に寛ぎながらひとりまどろんでいた。長椅子の前に広がるカーテンの閉められていない窓は夜の青褐に沈む庭園を切り取り、清廉なる月明かりを導き入れている。優美な曲線を描く肘置きには組んだ脚が無造作に投げ出され、もう一方の肘置きには背凭れに顔を向けるように傾げられた首筋が預けられていて、辛うじて背凭れに肘を預けている片腕の手の甲が青年の目許を隠していた。青年の他には誰もいないはずのこの館においては、時折かすかに柱や窓枠が軋む以外は、大気が揺らぐことすらない。
 青年の目の上でゆるく何かを掴むようなかたちを描いていた指が、不意に、揺れるように、動いた。
 わずかに持ち上げられた瞼の下から現れた蒼の目が、宵闇を映しこみ深さを際立たせながら、腕の下からぼんやりと天井を眺める。擡げられるように緩慢に動く首筋は月明かりに曝されて――頬や腕は勿論、冷気に強張っているのは緩められた襟から覗く肌すら例外ではなく――どこか白磁の陶器めいた無機質さとまろやかさとを放っていた。
 それまで無表情であった青年の表情筋がわずかに動き、失笑のような自嘲のような笑みを、たゆたわせるよりも薄く刻む。
 わずかな身じろぎに青年の硬質な短髪が揺れた。どうやらそれは否定の仕草らしく、先ほど青年が気づいた何かを、それは勘違いであると認識したがゆえのものであるらしかった。
 だが、すぐに青年はそれとは別の何かを確信として認識する。
 浮遊感めいた一瞬のおぼつかなさは床が震えた証。床に投げ出された指先を伝うのは、水よりもかすかな感触で流れる大気の動き。ほどなく振動は靴音となって青年の耳に届き、青年が嘆息しながら億劫そうに身を起こすと同時、扉の形に現れた光が扉の開放された音響が霧散するより速く光の道を床面に走らせる。

「デシェルト総督にしてアルバグラード戦線総司令官――アクィレイア子爵ウォルセヌス」

 こつり、と、靴音が響いた。
 率いてきた数人を廊下に待たせたまま、ひとり室内に踏み出して廊下の灯火を背に立つ紅の制服に身を包む男が青年の名を響かせる。

「アルバグラードは余計だ。彼の地の総指揮権は既に対アレス国境駐屯部隊隊長に戻っている」

 窓を満たす夜に、扉から伸びる光の川に足を浸して窓と対面するように置かれている長椅子に座る青年の横顔が映った。無表情のままほのかに苦笑めいた雰囲気をたゆたわせながら青年は片手で襟元を治しつつ立ち上がり、廊下のあたたかな灯火を呑み尽す紅の人影に正面から相対する。

「一応、確認しておこう。この館は私の館であり、言うまでもなくこの家の家長は私なのだが・・・」

 淡々と、どうでもいいことを語るように、越権行為だ、ということを青年は言外に滲ませる。

「門の鍵は、開いておりましたゆえ」

 堅苦しいだけのこの返答に青年の目許が少しだけやわらかくなり、

「夜分にいらぬ騒音で近所に迷惑をかけるのは、心苦しいことこの上ない」

 施錠されていなかったことはこの館の主たる自分の意図によるものであると表明して、廊下に待機している近衛兵へと声を投げかける。

「館の中は好きに捜索するといい。お望みのものが見つかるかどうかは、保障しかねるが。ちなみに、言っておくが、この館には私の他には誰もいない。家人を捜しても無駄だ。遅くとも二週前には暇を出してある」

 これに青年と相対している男がわずかに眉根を寄せた。怪訝さを隠そうともしない男に、青年は小さく肩をすくめる。
 青年から眼を逸らさぬまま男が軽く片手を挙げると、背後に控えていた男の部下たちは一度の敬礼の後に散っていった。
 凍てついた静寂に月光が踊る。

「訊かないのですか?」

 と、ひとりその場に残った紅を纏う男が唇を持ち上げた。何を、と問い返すことすらなく、夜を弾く金縁眼鏡によって安易には表情の読めない目の前の男を、青年は静謐を纏う蒼の目で見返す。

「近衛兵がここにいる。つまり私に拒否権はない。この状況を理解するには、それだけで充分に過ぎる」

 この帝国において皇帝直轄の指揮系統を貫く近衛軍を意のままに動かせる人物はただひとり――帝国皇帝。要するに、その者のみが、通常であれば不可侵権を保障されているはずの諸侯の館に踏み入る許可を近衛軍に与えることができる。そこでは疑惑や容疑や罪状を問いただしたところで何の意味もない。
 ふ、と、青年の口許を微笑のような穏やかさが過ぎった。

「怪我はいいのか?」

 男は淡く微笑し、返礼と敬いをその目に宿らせる。確かに、微熱にでも浮かされているのか、ただ立っているというその行為すら相当の重労働であるようにも見受けられた。襟首までをきっちりと着こんでいるにもかかわらず、男の首筋や袖と手袋の間にはひきつった無数の傷痕が見え隠れしている。

「貴方を迎えに来たのです。礼を欠くわけにはいきません」

 柔和に屈託無く笑う男につられてか――かすかにではあるが、それでも青年を知る者にとっては目を瞠るまでに劇的な変化として映ることには違いない――青年の顔に誰の目から見ても明瞭である微笑が浮かぶ。
 最低限一通りの身支度を整えた後、館の玄関にて、あぁそうだ、と、青年は傍らを歩く男に眼を遣った。

「できれば庭は荒らさないでほしい」

 その要望が無意味であることなどは他でもない青年自身が重々承知していて。

「あの庭での芽吹きを楽しみにしているひとがいる。踏み荒らされてしまっては、彼女が哀しむだろうから」

 思い出した何かをいとおしむように仄かに細められた蒼の目はどこまでも優しく。
軋みを上げて開かれた扉の隙間からは、ふわり、と、かすかな薔薇の香が漂ってきたような気がした。

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