Prologue


 透明な大気が大地を駆け巡るのなら、それはきっと、窓の軋みや樹樹のざわめきとなって我々の耳に届くのだろう。
既に黄昏の煌きが溶け果てた夜空には星屑が沈み、もはや陰影と成り果てた茂みを撫でる潤んだ風はざわめきを生み出す。

「ひとつの勝利の話をしよう。瓦解へと繋がる勝利の話を。他でもない我々が、今、こうして語り合える状況を生み出すに至った契機とも見なしうる、勝利の話を」

 ぱらぱらと雨粒が踊るように弾け散る音律は見上げるような大窓の硝子を風にそよぐ大樹の葉が叩く音であり、部屋の大きさに対してあまりにも仄かすぎる灯火がゆらぐ空間に響く音律は、青年と少年の狭間にたゆたう年頃の、金の髪の少年が紡ぎ出す声音だった。
 大きく仰がざるをえないほどに高く高い天井の、その自重を支える梁がひとつになる天蓋の下。そこに佇む金髪の少年はこの場所の主。癖毛なのか収まり悪く肩下あたりまでうねる金髪を持つ少年に横顔を見せながらひとり窓の外を眺めていた客人たる人影は、わずかに顎を擡げ、鷹揚に首を傾げながら、壁際に置かれている精緻な細工の施された銀の燭台から零れさざめく不安定でやわらかな灯によって浮上する目の前の人物を、灯火の橙が宿るその菫色の目に映す。金髪の少年とさほど変わらぬ年の頃と見受けられるその黒髪の少年は、大人びているというよりは老成したと形容する方が相応しい、感情が閃くことも動揺に揺れることすらも想像することのできないような、ひどく落ち着き払った目をしていた。

「勝利、ですか?」

 穏やかな無表情を崩さぬ客人の背後で、風に押された窓枠が軋む。

「あの出来事がなければ彼の帝国が疲弊することはなかった。いや、あの出来事がなければ、彼の帝国は、あのようなかたちでその疲弊を露呈することも、その疲弊が露見することも、なかった。そうは思わないか?」

 金髪に縁取られたやや気難しそうな顔に試すような笑みが広がる。どこか挑むような色を含むのは、やや吊り気味の、幾重にも重なった薄氷を陽に透かしたような煌きを孕む透きとおった碧の目。
 くすり、と、客人は微笑う。

「お戯れを。あの出来事がなくとも、おそらく、私たちは遅かれ早かれ同じような結果を目の当たりにすることになったでしょう。当時、偶発的に彼の帝国の片隅に身を置くことになった私にすら、強大と謳われた彼の帝国が人々の口に上るようなそれとは異なっていることを、感覚においては、捉えることができてしまっていた。あの当時、私などよりもずっと帝国の動きに敏感である位置に身を置いていた貴方がその可能性を看過したなどとは、考えにくいにも程がある」

 静かな瞬きの後、菫色の目は薄氷の目を正面から見据えた。

「ファウストゥス暦423年に終結したシュタウフェン帝国における帝都包囲。帝国が内部にて分裂したその動乱において、結果的に勝利を手にしたのは他でもない帝国皇帝。ですが、その勝利は、一時の平穏をすら、帝国にもたらすことはなかった」

 ここで客人はひとつ息をつき、

「そのおかげで、こうして私は貴方の前に立てるのですけれどね」

 わずかに眼を落としながら、失笑のような自嘲めいた笑みをその唇に刻ませる。すると、それまでは客人とどこか距離を測っていた金髪の少年が、不意に、かすかな笑みを零した。

「感傷か?」

 ささやかな嘲りを孕むこの問いに、

「思い出、ですよ」

 客人はやわらかく微笑する。
 屹立する大窓が相対するふたりの少年を映し出す。水面のような光沢を撒く灯火のゆらめきが、やわらかな金と硬質な黒に艶やかな橙を閃かせ、塗り潰したかのように平坦な夜の闇に散じていった。
 漣は海嘯となって大地からすべてを呑み去り、埋もれていた諸事象を抉り出した。
件の勝利より数年――――なおも瓦解と崩壊の残滓が鮮烈に渦巻く大陸において、休息する暇すら得ることもできず、各々の目的のために、ふたりの少年は対峙する。
耳が痛いほどの静寂の中、蝋燭の芯の焦げる音が弾けて響き、軽やかに舞い落ちていった。

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